目 次

●フィクション?シルバーバーチャル星人の生活●
   アセンションの果てに・・・

■「助かりたい人」・・・・・・・・・決して読まないで下さいね。
                    助かりたい人は助かりませんから
                                           時間の無駄になります。
■「仲間の『肥やし』になって
         散ってもいいと思う人」
・・・・・・・・・・・・・・御一読を
助かる・散るに関係なく
                  宇宙の進化に役立ちたい人」
・・・・・・・・・御参考に。

  • シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』 連載開始のお知らせ
  • 第1回 『善良・優良惑星人の前提』
  • 第2回 『想念作用(その1)』
  • 第3回 『想念作用(その2)』
  • 第4回 『予言のメカニズム』 想念作用と予言
  • 第5回 『一大天譴とアセンション』
  • 第6回 『新生地球再建』 所有なき世界
  • 第7回 『アセンションを阻むもの』
  • 第8回 『現存地球惑星人の来歴』
  • 第9回 『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に
  • 第10回 『正神に奇跡無し』
  • 第11回 『人類の特権と重責』動物の進化と人類の想念波動
  • 第12回 『悪あればこそ弥栄する』
  • 第13回 『神々の正体(その1)』
  • 第14回 『神々の正体(その2)』
  • 第15回 『神々の正体(その3)』
  • 第16回 『吾、吾にして既に吾に非ず』
  • 第17回   諸般の事情により記事の掲載は「待機中」となっています。
  • ベジタリアンページに
    ●ミミズとゴミ処理●
    「僕らはみんな生かし合っている」

    シリーズをUPしました。ベジタリアンページ目次の下のほうです。総合入口からどうぞ

    ●ベジ&スピリチュアル雑記帳●

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    シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』連載開始のお知らせ

      今週後半からは「シルバーバーチャル星人の生活」と題して、地球人の選択すべき未来を、シルバーバーチャル星の惑星人の暮らしとの対比において綴ってみようと思う。

     ・地球では常識でも、宇宙的視座からは非常識極まりない文化、社会システムとそこで生活する地球人の思考、行為をシルバーバーチャル星人の視点で書き綴るスタイル。

     地球人がまだ知らない実相がテンコモリ!乞うご期待

    • シルバーバーチャル星に貨幣経済は存在しない
    • 病院がない?人体の仕組みは熟知しているが、病気に関しては全く疎いシルバーバーチャル星人・・・なぜ?
    • シルバーバーチャル星人に名前はない。
    • シルバーバーチャル星人は皆ベジタリアン・・動物と植物の属性の違い(地球上の全ての動物が滅びたとしても、植物は必ず復活する訳が属性の違いを解くカギ)
    • 警察がない、消防がない、葬儀屋がない・・・地球にあってシルバーバーチャル星にない”職業”
    • シルバーバーチャル星人の”神”や”霊”の概念
    • シルバーバーチャル星には神社や仏閣や教会も宗教もないが、一人一人は神を敬いたたえて暮らすシルバーバーチャル星人
    • 地球人が死を悲しむ意味を理解できないシルバーバーチャル星人・・親が死んでもニコニコしている・・・なぜ?
    • 「携帯電話ってなんだ?」「エネルギー危機ってなんだ?」地球人とは通信手段始めエネルギーシステムが全く異なるシルバーバーチャル星人の社会

    ・・・・等々、続々。

    以下はシルバーバーチャンのフィクショナルプロフィール。(ノンフィクショナルプロフはココ。)

     シルバーバーチャンはシルバーバーチャル星に在住していた時の肉体は既になく、精神体だけ3次元的には名古屋熱田神宮に降り立った。その時偶然(本当は偶然ではないが)、そこを通りかかった母親の胎内で生命を受け入れる状態になった生物(胎児)に入り込んで後、地球人の子供として育てられた。が、その稟質(持って生まれた性質)においてはやはりシルバーバーチャル星人であるため、その後の地球人としての生活は、地球社会システムの中で、その矛盾と欺瞞に対する精神的葛藤に苦しみ続けるものであった。地球でいう成人するまでにはなんとか地球人らしく繕い装う術を身に付け、今静かに日本国内に潜伏し、このブログは時に東北から、時に四国から、時に北陸から発信されている。本拠地は名古屋周辺都市の一つであるが、日々、日本全国に出没している。

     シルバーバーチャンは今日あなたが乗った交通機関で隣に座った人かも知れない。

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    シリーズ 第1回 『善良・優良惑星人の前提』

    はじめに

    ≪シリーズ第1回は書籍なら「まえがき」に相当します。「シルバーバーチャル星人の生活」はシリーズ第2回めから具体化する予定です。また、「シルバーバーチャル星人の生活」は登場する惑星名や人物の多くは仮名です。

     また、このシリーズには時々いくつかの惑星人(種族)が登場するので、まるで全くの絵空事、全てがフィクションのような印象を受けると思います。しかし、地球人類がまだ航海技術を手にしていない時代を想起してほしいのです。世界にどんな大陸があり、どんな国があり、どんな種族が棲息しているのかなど想像を越えるものでした。邦人であるなら、髪は黒く目は細く皮膚は浅い黄色で…と自分たちの印象以外に、全く異形の種族が(地球人の範囲内ではありますが)高度な文明を築き、異なる文化で暮らしているなどとは正に絵空事であり、異人種と遭遇するまではその具体的姿も想像できなかったのです。「黒船」遭遇の折も、日本人によって描かれた西洋人はまさに絵空事に登場する天狗の様相でした。実在に遭遇して尚このデフォルメ描写です。これが惑星、銀河宇宙となると地球人には映画の特撮しか脳裏に浮かべることはできないのも無理はありません。地球人類は自分たちが文明化された存在だと信じて疑わないようですが、惑星間規模で統一を果たし、高度な宇宙空間移動の技術を持った知的生命体からすれば、往時の西洋文明からみた日本の様子の数万倍の落差をもって、地球人は精神文明的にも野蛮で攻撃的な未開民族として映るのです。この「未開民族は」将来極めて有望な資質を持ちながらも、その輝かしい未来をナイフのエッジの上を歩くような危なっかしさで、いつでもその未来を潰してしまう可能性も同時に孕んでいます。

     ここに展開・記述される内容を記憶する必要はありません。しかし、頭を柔軟にして読み進み、その本質をつかみ取っていただきたいと願います。シルバーバーチャンも物事をまだストレートに表現できない理由を抱えてる旨ご賢察ください。「淘汰後」にはこの内容を記憶しなくても、きちんと再教育が施されるのですから、その時に全てを知っていただければよいのです。

     では、フィクション『シルバーバーチャル星人の生活』を、地球人の未来だと思って想像力を逞しくして御高覧ください。≫

    ******** 本  文 ********

     地球人の誤解を恐れずに言えば、一見するとシルバーバーチャル星社会は地球の共産系社会に似ている。が、地球地上で共産主義が成り立つ事はありえない。地球社会とシルバーバーチャル星社会において、根本的に異なる点はシルバーバーチャル人類は一人の例外も無く相互信頼と奉仕の精神で暮らしている点である。地球人類のように我と欲に凝り固まり、美辞麗句でその醜態を隠しながら生きる似非共産主義下では、同じ給料、同じ住みかを与えられるなら、より多く働かないでおこうとするのが常である。よって社会の生産性は上がらず、進歩の度合いも遅々として進まない。

     シルバーバーチャル星に転生してくる精神体は幾多の惑星への転生体験を経る度に、一進一退しながらも現存地球人のような未熟な状態から現在のシルバーバーチャル星人へとその魂を進化させてきた者ばかりである。シルバーバーチャル星人も地球人もその容姿における違いに大差はない。およそヒューマノイド型の祖先から進化した惑星人は進化の最終段階へと向かうベクトルの中で、必ず頭、胴体、2本の腕に2本足で直立歩行というスタイルをとる。(地球の古いサイエンスフィクションに登場するようなタコ型の知的生命体は実際には存在しない。)また、シルバーバーチャル星人と地球人は琴座系ベガ星人をその祖先として同じくするため、シルバーバーチャル星人は地球人に紛れ込んでもまず区別はつかない。シルバーバーチャル星人は、精神体の単なる入れ物に過ぎない肉体やその基本的生物的機能における比較において地球人と大差なくても、その中身、即ち肉体に宿る精神体とそこに幾多の転生経験によって育まれ、刻まれてきた理念が地球時間にして4万年ほど地球人より進化している。

    優良惑星に昇格して後、既に4万年の進化を遂げているシルバーバーチャル星には、幾多の惑星経験を積み、理念高き魂しか転生しては来れないため、生まれながらにしてその心には慈愛と本能のごとき奉仕の精神が根付いている。己または己の家族のみを利するなどという狭隘なる偏愛を持たず、己という存在がいかに社会に貢献できるかのみに意識が注がれているといっても過言ではない高邁さを持ち合わせている。地球人のように図らずも自己満足に陥ってしまう奉仕活動とは比較も仕様がないほどに自然なのである。地球人の富裕層、いわゆる金持ちの暇人、有閑マダムなどに限らず、地球人の場合「他人様のためになる事が気持ちのいい事」であることに疑問を差し挟む者はいない。たとえそれが人の目に触れようが、触れずに陰徳を積もうが、奉仕をして気持ちが良いと思うのが地球人である。更には、名誉や功名心を糧に奉仕活動に勤しんだり、宗教の傀儡(操り人形)と成り果てて「ご利益」など内心密かに見返りを求め奉仕活動にのめり込んだり等もっての他である。シルバーバーチャル星人を始め、ある一定の精神文明を築いた善良・優良な惑星人は、その日常の暮らし全てが奉仕そのものであるため、『我ながら、いい事をしたわい。』などと思う事が微塵もない。地球では他の為に己を犠牲にしてまで尽力し貢献する事が美談であるし、感動を呼ぶ訳は、それが日常茶飯事に起こることではないためである。稀有であるから取り上げられ、感動話となる。地球で昔、ワシントンという米国の歴史上の指導者が、その幼少の頃のある日、祖父の大事にしている桜の木を切り倒したことを正直に白状した事が美談であるかのように地球の学校という機関で話によく登場するが、自己の保身などの為に嘘をつく事の方が日常的にまかり通った社会であるからこそ美談となるのであり、シルバーバーチャル星の社会ではどうしてそれが美談となろうか。シルバーバーチャル星人にとって、各人の愛念の強さに応じた全ての実践は地球人が呼吸をしたり、靴ひもを結んだり、歯を磨いたりするのと変わらない日常の事なのである。それほどに愛念の強い調和の取れた惑星人なのである。地球人が乱用・誤用して止まない「愛」という独占欲や自己満足や麻薬的呪文とは愛の概念が異なる。その根底にある感覚は自他一体感なのである。「俺が(我)、俺が(我)」という我と欲がなく、自他の区別をしない惑星人は善良・優良星人のランクに位置付けられている。

    怒りを始め、憎しみ、呪い、羨み、不平、不満もなく疑いも迷いもない、他を責める心もなく、己のみが正しいとの驕りもなく、常に平常心で暮らす惑星人を善良・優良星人というのである。

    地球人は「そんな奴は馬鹿同然だ。そんなことでは(地球では)たちまちだまされる、利用される、馬鹿にされてしまうし、第一生きてはいけまい。地球では憎しみ、妬み、羨み、怒る事は当たり前。攻撃し、不満を言い、権利を主張し、我を張り、欲を張り、他を押しのけても進まねばたちまち没落していくんだ。」という。それはそうであろう。地球社会ではそうであろう。その地球社会を構成しているのはそういう地球人類なのだから。旧態依然としたままでは、これまでも、これからも遅れた文明のもと苛烈な競争と戦いに明け暮れる不良惑星人のままである。

    いずれ地球人もシルバーバーチャル星人のように脱皮する時が来るが、自助努力と外部の強制力(地球規模の災害等を体験する事により、地球人類がそれぞれのイデオロギー主張とマネーに奔走する(奔走せざるを得ない)自己の有り方に心底疑問を感じ、『本当に大事な事』は何なのか精神的覚醒を惑星規模で地球人に促すトドメの力)による艱難辛苦を乗り越えた者達が新生地球人類として再起するまで、ここでこれから述べて行くシルバーバーチャル星人と地球人のギャップは埋まらないのである。

    強制力、外力とは大規模な天変地異という形を取る。2005年現在まで年を追うごとに災害の規模が大きくなってきているが、この時働く強制力はこれらの比ではない。ガス、電気、水道などライフラインはもとより、家屋、ビルや道路や橋など社会インフラも壊滅的状況となり、貨幣経済システム始め、一切の社会システムが完全に麻痺、崩壊する。住むところも避難するところもなく、生き残った(生き残らされた)心ある人類は、焦土と化した混沌地球で、全くのゼロからのやり直しを余儀なくされる。従来の社会システムを踏襲した金銭勘定などしている暇もなく、互いに命がけで助け合う淘汰後の新生地球人類の結束は強く、貨幣経済をそのまま忘却の彼方へと押しやっていく。ここに互助の精神と相互信頼に基づく新しい社会形態の原型が構築されるのだ。この一大転換に乗じて、嘗ての盟友、朋友、兄弟姉妹であり、すでに高い精神文明に帰着した琴座の系譜を持つ惑星人が大挙して援助の手をさしのべる。淘汰前とは異なり、新生地球に辛うじて生存を許された地球人、即ち優良惑星人「一年生」に手を差し伸べるわけである。淘汰後の世界には怒り、憎しみ、相互不信、利己的、攻撃的、犯罪的な地球人はいないため、吾々も初めて地球人に公然と接触できるようになったのである。

     

    こうした淘汰を乗り切るため、即ち優良惑星人と現生地求人のギャップを埋めるために必要なものは一言で言えば『気付き』以外の何ものでもない。ある者はこれを「悟り」と呼び、ある者はこれを「覚醒」と呼び、ある者はこれを「成長」と呼び、またある者はこれを「解脱」と呼んだりする。

     気づき方は各人各様であるが、単に気付けといわれてもどこへ向かって行けばよいのか方向性を見失うと「気付き」は「ただの言葉遊びに終始」し、「哲学の森に迷い込む」ことになる。

     そうならないためにシルバーバーチャンは、概念的に進むべき方向性を示す一助となればと考え、「強制力」が発動する前に、今後このシリーズでシルバーバーチャル星人の生活を参考として記述しようとしているのである。ここに登場するシルバーバーチャル星はその名の通り、バーチャル(仮想)の星だが、実在する数多(あまた)の優良惑星人の生活も、他の島宇宙(銀河)においてさえも、大なり小なりこのようである。

    そこへ向かうための「気付き」とは何も難しい事を言っているのではない。シルバーバーチャンの過去の記事を参照すれば腑に落ちるはずである。

    (以下過去ログ 『 喫煙と肉食 「目覚め」れば簡単にヤメられる 』 より抜粋)

     大事なのは目覚め、覚醒、悟りだ。悟りなどというと大袈裟に聞こえるが、悟りとは日常生活のそこかしこに転がっているものであろう。正確には「悟るチャンス」と言うべきか。悟りとは、なにも深山幽谷に篭もり、座禅を組み、時に滝に打たれて、心頭滅却・・・・など、特殊な人が特殊な場所で特殊な事を特殊な方法でやらねば得られないというものではない。

     霊性の向上こそが生命進化の目的で且つかように特殊な事をしなければ悟れないというなら、特殊な事など一切しない大方の人類は生きている意味などなくなってしまう。特殊な事が特殊な場所で特殊な方法でできるチャンスが与えられた特殊な人だけが悟ってよいなどというように宇宙が構成され、仕組まれているはずもない。

     悟りとは日常生活で、揉んで揉まれて喘ぐ中、視野を広く持ち、自ら得たものだけがその者の財産となりうる「気付き」以外の何ものでもない。タバコにしろ肉食にしろ、その弊害、その矛盾を知識として蓄えるのはたやすい事だが、それは気付きであろうか?知っただけのことであろう。

     感動的動物映画の後に、肉を頬張り笑顔で感動の余韻に浸り、その感動を熱く語る自分の姿、レストランの窓ガラスに映ったその自分の姿を見て、その矛盾に自ら気付く事。これは紛れも無い悟りなのだ。悟りには程度の差は勿論ある。まずは気付くことではないか。気づきの深さはその後に漆塗りのように重厚になっていくものだ。

     そして、悟るほどに課題は難しくなる。悟るほどに一見辛そうな人生を送る事もある。世間から距離をおかれることもある。孤高な人生である事が多いだろう。許せざるを許していかねばならぬこともあるだろう。これは深山幽谷で起こっている話ではない。これ全て日常生活のそこかしこで毎日のように起こっている事象なのだ。悟るチャンスは腐るほどあるではないか!

     深山幽谷に篭もって得られる特殊な能力は悟るに絶対必要な要素ではない。それらは霊性に比例しない。むしろ特殊能力を悟りと勘違いし、おごり高ぶり天狗になって、その霊性を却って卑しめている者も散見される。そして局の視聴率稼ぎに利用される「超能力者」「霊能者」。麗しい霊性からもたらされる能力もあれば、霊性が低くとも「背後」の邪な力に通じた能力もある。世に奇跡を起こして大衆の瞠目を集める者の背後は往々にして霊性低く邪(よこしま)だ。霊性の高い者の背後は高級霊に属する存在で、その語る内容は大衆を気づきへと導く厳しくも愛念のあるものだ。決して欲を煽る甘言ではない。願い事もかなえないし、ご利益も与えない。大伽藍や大聖堂を建立しろともいわない。見返りを求めない。そして、静かに気づきへと導くものだ。

     そして、悟るほどに人はその姿勢が低くなる。

     『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』

    ・・・【後略】

    そして、「足るを知る」もまた気付きの一つであり、実践である。

    (以下過去ログ 『実験(一応)終了:「飽食の時代に立ち向かう実験」』 より抜粋)

    ・・・【前略】飽食に踊った美食家はこの限りではなかろう。老廃物のオンパレードのような鈍重な代謝を抱えた身体は、「余計な物」を欲しがるものである。粗食・素食には身体が耐えられず、その前に精神的忍耐がそもそもついては行けまい。豚には申し訳ないが「太った豚より、痩せたソクラテス」である。生きるために食うより食うために生きる輩が多過ぎないか?日本!いつから貪り眠る国民となったか?日本人!
     
     生物(肉体)はその進化の歴史上、飢餓に耐えうる身体の仕組みを作ってきたが、飽食、栄養過多に抗する仕組みを持ち合わせてはいないのである。原因の直接間接、遠近を問わず、食のあり方が元で引き起こされる病は枚挙に暇がない。生物(肉体)はその食したものから再合成、再生産された集合体に他ならないのだから、過剰、余計なものは過剰、余計な結果となって身体に現れて然るべきである。まさに「体現」であり、「医食同源」である。

     食欲を欲しいままにしておきながら、その一方でダイエット、ダイエットと踊る騒々しさには閉口する。
     
     子供を産んだら太ったなどとはシルバーバーチャンからすれば言い訳である。子供を産んだら太るように生物は進化したとでも言うのであろうか?食糧事情の悪い国々では、子供を産んでも誰も太らない。要するに「食べたいだけ食べた報い」ではないのかと言いたい。『そんなことはない!これでもタエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノビ食べないようにしているのよ!』とまたまた騒がしいことこの上ない。要するに、食欲に対する満足をどこで線引きしているかである。

     「これで満足。ご馳走様。」という状態は、ある人にとっては≪空腹でない状態≫をいい、またある人にとっては文字通り≪腹イッパイの状態≫をいう。
     前者は
    霊主体従の「足るを知る人」であり、後者は体主霊従の「無頓着にして貪欲なる人」である。
     
     この足るを知る心は、その人個人の身体をまず救済するであろう。そして遂には地球人類は勿論の事、生きとし生ける物とその生息環境全てを救うことに繋がるのである。足るを知る心有れば、必要以上の生産による環境破壊も止まり、エネルギー消費も緩やかとなり、惑星に生息する生物を絶滅に追い込むなどという蛮行も息を潜め、生態系のバランスも壊れることなく、足るを知る心有れば、必要以上を欲しがらないため、譲り合いが生まれ、相互不信が転じて互助精神が培われ、ひいては国益の争奪戦をも制動するに至るであろう。

     何故なら、個人の「体型救済」に始まり、地域社会も、国家も、地球生物も、地球環境も、それらの救済実現に共通する切り札は「足るを知る」心だからである。
     「空腹ではない状態」を満腹として感謝できる日常の小さな「意識改革」・身近な「足るを知る」心世界を動かすのである。反対にどこまでも食いたい、食いたい、もっと食いたい・欲しい、欲しい、もっと欲しいという貪欲な心が個人の体型を見るも無残に破壊するのみならず、同時に惑星破壊に繋がっている事にも憂慮を広げてほしいものである。

    ・・・【後略】

    シルバーバーチャル星人はその社会・惑星全体が理念、愛念共に既に優良惑星人の域にあるため、相互不信など起こり得ようはずがない。地球は未開の星でもないが、善良・優良惑星のカテゴリーにはまだ属していない。地球人類は未だ両の手に我と欲をしっかりと握り締めて離さず、相互不信と利己的人生を送るものが9割以上である。そうであるから不良惑星人として地球上で不幸の絶えることなく、人生の目的も解らず、目先の利とささやかな享楽と生活の糧を得ることに埋没し、人生の目的を経済的成功や家族の形成や物の所有にすり替え、馬齢を重ねて老いて、または事故で、または病で、または自ら死にゆき、生まれ変わり死に変わりし続け、業(カルマ)の一部崩壊と新たな業(カルマ)を積む事を繰り返し、中々に不良惑星人と優良惑星人とのギャップ・壁を越えられずに今日に至っている。他の島宇宙、他の星系の不良惑星人もその程度に差はあるものの、おおよそ地球人と似たり寄ったりである。国家を形成し、支配と被支配が必ず存在し、どの不良惑星にも貨幣経済かそれに似たシステムが存在する。相互信頼に憬(あこが)れ、平和を望みながら、心の奥底には互いに不信感を持ち、平和へと導く真の道も方法も知らず、法律や戒律で規制するなどして何とか渡り合いながら騙し騙しの「均衡」を平和とするしかなく、喜怒哀楽激しく、他の惑星から互いに孤立して独自の惑星文明を築いている事が多く、その多くが不徳の文明であり、順風の吹くときは驕(おご)り高ぶり、逆風の吹くときは荒(すさ)む事甚(はなは)だしく、戦争闘争紛争の絶え間がない。が、不良惑星の中でも、地球は不良惑星から優良惑星へと飛躍する目前の惑星であるため、地球惑星史上、類を見ない既述の「外力」が未曾有の一大天譴として最も強く働く域帯にあることをここにまず告げ置くものである。

    *******正しくは「強制力」でも「外力」でもなく、地球人自らが招く結果なのだが、ここでは「想念の作用」を詳述していないのでいったん「強制力」や「外力」と表現し、あたかも外からきたもので、人類には責任のない事象のように扱っている。実際は人類に原因があるという事をいずれの機会にかあらためて詳述する。*******

    次回のシリーズ第2回からはいよいよ「お知らせ」通り、シルバーバーチャル星人の生活を地球惑星、社会、システムとの対比において綴って行く。

    本日これまで。

    【おまけ記事 (1)】

    ≪優良惑星人が地球人類の前に大挙して姿を現す日は遠くない。地球という同一惑星上ですら、数世紀前までは新たな異人種と遭遇して腰を抜かしたように。それを目の当たりにできる地球人は現在の総人口に比して多くはない。気付きを自ら得ようとしなかった多くは一大天譴の時、その肉体を潰して後、優良惑星に昇格した地球には従来のように再転生出来なくなっているため、一部は未開の星に、一部は現地球同等かやや劣る、やや勝る程度の不良惑星に転生して、その惑星人として人生を過ごすことになる。その惑星人らしい名を名乗り、その惑星人の両親のもと、その不良惑星人なりの青春や恋を語る庶民的暮らしの一方、結局は庶民の集合体である惑星自体は相変わらず戦争紛争闘争の生存競争社会において相互不信を基底にし、貨幣経済様システムを築き、惑星人はその枠組みに縛られ、支配され、病と不幸に苛(さいな)まれながら、知的生命体などこの星以外には存在しないと智を閉ざし、天災地変に煩わされて、飽食と貧困、支配と被支配、無知蒙昧、人口爆発、環境破壊、そしてまた戦争紛争闘争のスパイラルダウン循環へと落ちていく事になる。その頃、遠く離れた新生地球(遠い過去、自分の精神体が肉体をまとって存在した星)の知的生命体が、何とか智を啓(ひら)こうと、着かず離れずして接触した時には、その愛念も理解できず、お粗末な軍事力で挑戦する事だろう。≫

    【おまけ記事 (2)】

    (「プリズム・オブ・リラ」リサ・ロイヤル、キース・プリースト共著 初版 話が飛びすぎて分かりにくいかも知れませんが・・。)

    プレアデス星人と地球人のルーツは琴座星人である。地球人として宇宙歴に登場するのはずっと後の話だが、太古、琴座系の一派で父性原理を信条の一つにした琴座系ベガ星人は、母性原理を行動規範の一つとしている琴座星人とは対局をなす種族へと発展し、太古この2種族には争いが絶えなかった。琴座星人は他にもシリウスに入植している。シリウスは地球では「犬座」として知られて、地球古代の各神話の随所に登場する。〔例えばシリウスに入った元琴座系ベガ星人と袂を分かった分派との間で起こった闘争がシリウス全体を巻き込んだ紛争へと発展する緊張状態を招いた時、これに「シリウスの長老」たちが介入し、紛争のステージをオリオンに移し、ここで二者の相克を解決しようと試みたことが、「犬」(犬座:シリウスの長老)が「狩人」(狩人の星:オリオン)を導いたとして、地球の神話に登場する。こうした彼らの紆余曲折の軌跡は、地球にもその片鱗が(すでに比喩的になってしまっているが)神話の随所に散見されるのである。〕このシリウスには肉体を持たない生命体も含め、多様な意識形態が存在している。地球ではエジプト文明にその足跡を濃く残している。更に地球はオリオン星人の影響も多分に受けることになった。オリオンは琴座、ベガ星人、シリウスの子孫であり、いずれ述べることになるが地球と良し悪しは別として密接な関連がある。ここではオリオンは激しい「戦場」であったとだけ言っておく。また、琴座星人はプレアデス星団にも入植しており、日本では昴(すばる)と呼ばれ、昔から文人にも愛でられた星々である。プレアデス星人は地球人ともっとも遺伝的に強いつながりを持っている。また、地球に関与する「有名」な惑星人にゼータレチクル星人がいる。「宇宙人による人間誘拐」(アブダクション)はこの惑星人によって引き起こされている。地球ではグレータイプと呼ばれ、異様に大きな目といぶし銀の皮膚に身体とのバランスを欠いた大きな頭蓋が特徴であり、琴座から派生した他の惑星人とは「ある事情」とその後の進化で異形の惑星人となった。彼らの名誉のために少しだけ言及するが彼らは「ある事情」から琴座の遺伝子ほか様々な惑星人の遺伝子サンプルを保持している地球人の遺伝情報が必要なだけなのだ。「ある事情」によりゼータレチクル星人は種の存亡の危機に面していて、地球人の遺伝情報を欲しており、敵意は実はまったくない。その証拠に「誘拐」ではなく「一時拘束」により、遺伝子サンプルを採取するのみで、現実地球人の殺害や誘拐はしていない。一時拘束した地球人は元の場所に帰されている。「ある事情」はいずれ詳述する。なぜなら彼らが犯した過ちを地球人類が繰り返さないためにも彼らの歴史と現状を理解することは大変重要であるからだ。

    THE PRISM OF LYRA 訳:保科一美(復刊版では星名一美に変更)

     《ちなみにこのシリーズに登場するシルバーバーチャル星人はバーチャル(仮想)の惑星人だが、そのモデルをプレアデス星人としている。遺伝的にも近く、見た目もほとんど地球人類と変わらないプレアデス星人は地球人に対して非常に深い愛情を持っているためである。また、蛇足だがこのシリーズに登場するシルバーバーチャル星人であるシルバーバーチャンは地球人の身体に入り込んだシルバーバーチャル星人の精神体という設定になっている。》

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    シリーズ 第2回 『想念作用(その1)』

    先回、シルバーバーチャル星人と地球人の決定的差異は、肉体的特長にはなく、その中身である精神体にあるといった。具体的には精神体の質・レベルといったほうが正確である。では、質・レベルとは何なのだろうか。何を以って質が高いというのだろうか。

     それは発する「想念のあり方」の一言に尽きる。発する想念はその元である人格・霊格・理念に左右される。人格・霊格・理念は転生ごとに受ける人生の教育と実践経験によって育まれ、培われていくものである。

     地球人とシルバーバーチャル星人の差異はこの想念のあり方を起点に発生している。科学技術においてもこの想念のあり方が大きな要因であるし、コミュニケーションもこの想念のあり方が大きな要因である。その他、この想念のあり方と使用方法によりシルバーバーチャル星人の社会システムは、地球人のそれに比べて格段に自由度が高いのである。

     シルバーバーチャル星人はもとより、優良惑星人に属する惑星人に共通する能力は、地球人がテレパシーと呼ぶ精神感応力である。思ったことは筒抜けである。地球人にとっては嬉しいような悲しいような話であろう。まだまだ邪心を内包する地球人にとって、他人に知られてはまずいこと、都合の悪いことが天に届くほどに心に積み上げられていよう。

     精神感応力があれば、嘘は当然、いかなる犯罪も成立しない。既述の「ワシントンの桜」の話はそもそも成り立たない。地球人が使う携帯電話に代表されるいかなる通信手段も必要なく、言葉も極めて少なくなる。(地球人の卑近な例では「告(コク)る」必要もない。道を踏み違えた恋路に迷い込むこともない。時期到来すれば天与の配偶者を瞬時に判別する。シルバーバーチャル星には地球社会のように結婚という法的制度は存在しないが、夫婦という形はある。)伝達を全て言葉に頼る地球人とは全く異質の世界である。

     シルバーバーチャル星にも言語はあるが、地球の言語のように原則一語につき一義という応用の利き難い言語ではない。

     少し解説すると、シルバーバーチャル星人は地球人などの不良惑星人や発展途上惑星人のことを「シャン」(愛しくも悲しい者)と呼んでいるが、ここに「デミィ」という動詞が付いて、「シャンデミィ」となる。日本語と同じ主語、動詞の順番である。「デミィ」とは基本的に光速を超える方法で時空を移動し、「所定の」任務などを他の惑星人に対して行なうことだが、単に「シャンデミィ」だけでは、どの惑星にどんなミッションをいつどのぐらいの期間したのかなど、地球人的言語の理解方法では詳細は全く分からない。

     しかし、この「シャンデミィ」は言語の形はとっているものの、実際にはシンボリックな言語であり、「シャンデミィ」と発話すると同時に、例えば「地球の日本長野の穂高岳の986地点での地質変動信号受信ユニットの埋設に2人で赴き・・・○×△□で#に!!たら・・・、農民に××した。」など内容を精神感応にて行ない、鮮明な映像や思念も含めた情報を100%正確に伝えているのである。従って「シャンデミィ」そのものは発話する必要は本来はない。

     ただし、彼らの歴史上使用してきた言葉を親愛を表す表現として発話したいと思う者は発話する。こうした発話はシルバーバーチャル星人同士の久しぶりの物理的再会などの時によく見られる。再会を喜ぶ想い自体は精神感応で言葉などよりも遥かに正確に伝わっているが、喜びを表現する方法としてそれに相応しいシンボリックな言語を発話するのである。

     従って、地球人のように順番に言葉を発していって、時間の経過と共に言いたい全容が次第に相手に伝わるというような非効率はない。

     ここで、地球人AとBが携帯電話で次のような少しアホな会話しているとする。「あのねぇ」『うん』「昨日ねぇ」『うん』「マルキュー行ってさ~ぁ」『うん、一人で?』「ううん、アミちゃんと」『ああ、アミちゃんってあの?猿顔っぽい?』「はぁ?猿ぅ。イカでしょう!猿っぽのはアヤちゃんじゃん」『ああ、そっかぁ。うんわかった、わかった。で?』「それでねぇ」『うん』・・・何秒時間が過ぎただろう。シルバーバーチャル星人は言語も使用せず、このあと延々と続であろう内容が一瞬で、言葉で伝えるより僅かな減衰もなく伝わる。Aがどんな格好をしていたか、知りたければその映像が(履いていた靴にあたった光の反射具合まで)正確に瞬時に脳裏に再現される。究極のコミュニケーションである。

     この精神感応力があるが為に、地球人からすれば絵に描いたような桃源郷を優良惑星人は実現せしめているのである。どちらが先かという話になるが、優良惑星人だから精神感応できるのか、精神感応できるから優良惑星人なのか?

     答えは、文頭に述べたように「発する想念はその元である人格・霊格・理念に左右される。人格・霊格・理念は転生ごとに受ける人生の教育と実践経験によって育まれ、培われていくものである。」と記述した中にある。そう、人格・霊格・理念がその域に達した時初めて賦与されるのである。

     考えても見れば分かることであろう。万が一地球人の霊性で精神感応力を持てばいかなることになるか。怒り、憎悪、嫉妬、呪い、抑圧感、不満、果て無き欲望を抱えた霊性で精神感応が万民に働いた時、世界は収拾のつかない修羅場となる。自分のことを好かぬ相手を好くことはないだろう。相手が自分を嫌っていると知って何とか修復しようと言葉を尽くして接近して辛うじて良好な関係を築くことが出来る可能性があるのも「言葉」という方便があるからであり、もしここで精神感応が働いていたら、言葉での方便は功を奏さず、内心少しでも「俺だってお前なんか軽蔑して嫌いだけど、仕事上しょーがねーんだよっ!。この野郎!」との思いがあれば筒抜けである。「そーかテメーもか!上等だ!この野郎!じゃぁ、お互い憎み合ってりゃいいじぇねーか!ああ?コラ!」・・・修復不能である。果ては、「テメー殺す!」「殺される前に殺す!」となる。どこかの街角で展開されそうなケースだが、個人間、家族間、グループ間、国家間でも同じである。地球人の場合、言葉があるから厄介でもあるが、言葉があるから(精神感応力が使えないから)本音を隠して助かってもいるのである。知らぬが仏とはこのことか。

     知らぬが仏は地球人の輪廻転生においても同じ事が言える。前の世のネガティヴな記憶を精神感応力を持って出てくれば、姿形、性別などが違っても、過去世で「自分(だった存在)をやった」相手を今生で見つければ、途端にメラメラと復讐の炎をその心に燃え上がらせ、「やり返す」ということになる。

     前世の記憶を封印して転生しても尚、例えば「ある姉妹の異常なまでの仲の悪さが、前の世で一人の男性を巡って熾烈な憎み合いをしていた職場の同僚だった事に起因していた」などということがある程だ。本人らは過去世の記憶など表面意識では思い出せないにもかかわらず、今生で憎み合ってしまうのである。

     これが明確に意識できたら一体どんなことになるか?中には「明確に意識できるからこそ原因がはっきりして反省できて進化が早まるのでは?」という向きもあろうが、憎みあう霊性を抱えていた者同士が、転生したからといって直ぐに反省・改心して、仲良し小良しとはならないのである。そんなことが出来るなら過去世の間に解消しておけばよいではないか。その一生を費やしても出来なかったからこそ、許せなかったからこそ、愛せなかったからこそ、己の非を悟れなかったからこそ、今生にその課題を持ち越しているのである。

     肉体を纏(まと)った時に、原則として過去世の明確な記憶を封印されるのはこうした理由からである。

     過去世の関係など知らなくても(知らないからこそ)、今生で仲の悪いことを解消して気持ちよく暮らしたいと、様々に努力することで遠回りしても(また、遠回りしたお蔭で思わぬことを学んだりして)少しずつ蟠(わだかま)りを解消したり、自分の至らぬ点を発見(自分発見)して互いに成長できるのである。 

     このネガティヴな思念を克服しているシルバーバーチャル星人には、記憶を封印される必要はなく、精神感応力も賦与されることになるのは法則にかなった事である。シルバーバーチャル星人始め、優良惑星人が転生して肉体を持つ理由は、一なる創造主の大愛により近づくため、その人生におけるより高き愛を学び、実践するためにある。その過去世の記憶は人類愛の実践の記憶であり、先回よりももっと大きく普遍的な愛を実現すべく魂の進化・向上へと邁進する体験を積むのである。ただし、これは優良惑星に属して数万年経過した惑星人に対して言えることであり、優良惑星として数百年、数千年の惑星人は肉体を持つ転生と共に記憶は封印されている。肉体を去った後に過去世一切を総覧するのはどの優良惑星人にも共通している。(地球人など不良惑星人の場合は、死して尚、回顧できるのはその一回限りの人生のみであるが、必要によっては関連ある過去世を見させられることも有る。)

     一方、大方の地球人が転生する理由は、シルバーバーチャル星人等が既に克服したネガティヴな思念を制御する学びの為である。一方で人を愛しながら、他方で人を憎むという矛盾・分列した状態から、厳しく深い大愛へと近づく入口を模索するため、苦痛・苦難・苦悩の中にその身を置いて学ぶ不良惑星人なのである。優良惑星人は、既に苦痛、苦悩から解放され、穏やかな日々の中により強くゆるぎない巨視的大愛を学ぶための転生をするのである。(優良惑星人とてかつては例外なく不良惑星人として生きた時があるのだ。)

     不良惑星人は精神感応力が行使できないだけに、大多数が精神世界を否定たり、無知であったりして、想念の影響力を軽んじて暮らしている。結果として、築かれるのは唯物的文明となる。その智を閉ざした唯物文明の中にあって、精神世界、想念の作用、宇宙の法則、ひいてはそれに沿った人生の目的と自己を啓いていく一部の地球人は、中々見込みのある御魂(みたま)といえる。惑星地球の波動の高まりに応じて、近年、このように目を醒ました御魂の増加は目を見張るものがある。これらの御魂が正しい想念の活用法を学び、これを正しく制御するなら一大天譴も最小となり、アセンションも極めて円滑に進むことであろう。

     冒頭で「科学技術においてもこの想念のあり方が大きな要因であるし、・・」と述べたが、シルバーバーチャル星の科学技術は、精神の作用を物理的科学技術に融合させた、いわば立体科学である。時空を超える技術もこの立体科学、即ち精神の作用抜きにはその発見もその後の発展もあり得なかった。

     脳裏に思い描く対象をスクリーンに描画する技術などは極めて初歩的な立体科学だが地球人には驚異的であろう。地球人の場合、これを脳波から検出してなんとかしようとするのが関の山である。そこには量子的飛躍が必要なのだ。即ち波動の制御技術である。この波動に関して研究と技術の研鑚が進むと、時空の立体科学へと発展する。時空科学の発展でますます物質の量子化の研究が進み、物質の非物質化へと発展していく。シルバーバーチャル星の飛行船が地球人に姿を見せず停空出来るのはこの非物質化技術と重力制御技術による。

     この飛行船に投入されている重力制御技術も地球人にとっては未だ到達し得ない代表的科学技術である。反重力リアクターの名で一部の地球人には知られているが、単に地球の物理的な機械、唯物的機関ではこの重力制御技術を手中に収めることは出来ない。ここにも精神の作用が関わるのである。よって操縦士によっては、同一の飛行艇を操作しても、運行に上手下手の差が生じるのである。当然未熟である者は、自らその器を知るため実際に操舵することはない。地球人のように能力を計る試験を受けて、画一的評価とその点数で知るものではないのである。

     地球人でも大人ならひと跨(また)ぎ出来る小川でも、子供はこれを一跨ぎでは渡れないと「理屈抜きに」判るようなものである。自分の身長、脚の長さをいちいち計測しなくても感覚的に捉え、渡ることが可能か否かは直感的に判断できるではないか。感覚的にはこれと同じである。

     このように優良惑星人は万事において己の器というものを知っている。シルバーバーチャル星には地球人のような政治システムは存在しない。おのれの器を知るが故に、指揮者、指導者を筆頭に、それぞれの役割を悟り、自ら選ぶのである。よってそこには一切の不満なく、矛盾なく、円滑にいかなる社会システムも、惑星そのものが恰(あたか)も、一生物のごとく統一と平和の中に運用されるのである。精神感応力あるが故である。

     地球の政治は熾烈な選挙政治であり、衆愚政治でもある。その立候補者の徳や霊性の高さは(精神感応力がないため)意識的に操作されたイメージや経歴により判断し、立候補者は他を押しのけ、手段を選ばず蹴落としても這い上がろうとする心根の者が多く、このような想念波動を宿した者が指導層となり世を導いていては、世の中がよくなり得よう筈もないのである。

     排他的想念を宿す指導者層の想念波動とその国民の想念波動によりその国運の明暗が分かれるのである。排他的悪想念を盛んに発すれば、作用反作用の原理で己に必ず跳ね返る。中東のジハードのような思想、ハムラビ法典にあるような「目には目を、歯には歯を」的復讐の思想では憎しみは憎しみを呼び悪想念の蓄積は加速度的に進み、三次元的には戦争へと突き進むのみならず、天災地変を惹起する負のエネルギーとして作用するのである。身近なところでは、日本国統一センター試験や選挙など全国的に緊張、排他、競争、利己、我欲、心配、不安など多くの国民が一斉にネガティヴな想念を発する時、幾ばくかの時間差をもって悪天候として具現化することは地球人の一部ではよく知られている。

     優良惑星人の住む星々は地球で言う四季の区別はあるが、一年(惑星によって長短様々)を通じて温暖にして穏やかな気候であり、想念波動の清まりは優良であるが為、天災地変は起こらない。地震も竜巻もなければ、雷すら発生しない。地球人の常識では考えられない理想郷である。が、想念波動の影響をまだ身にしみて理解していない地球人には、絵空事に聞こえても止むを得ないだろう。いつの日か自らがその目で確かめてみるが良かろう。

     シルバーバーチャル星人の文明は、その科学技術から社会システム、個々人の暮らしに至るまで想念、精神作用、感応力の働かない対象は何ひとつないのである。

    ●この想念の作用については改めて詳述する。このあり方によっては既に別の記事で述べた「一大天譴」の様相が大難にも小難にもなる(最小ならば一部で災害など小規模な崩壊はあっても、大勢に影響のない程度にまで無力化することは決して不可能ではない)。その記事で既述の一大天譴は、地球人の想念の総体がうまく制御され切れなかった時の激しい事例である。一大天譴に続く、巷でいわれるアセンションの様子もこの想念のあり方が大いに関与している。詳述は後日に譲るが、大は一大天譴やアセンションから、小は地球人個々人の運命まで、偏(ひとえ)にこの想念制御に懸かっている。次回は一大天譴やアセンション、未来が確定する仕組みや「予言・予知」のメカニズムを地球人類の想念波動・高まる地球の波動を核にして包括的に記す事にしたい。

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    シリーズ 第3回 『想念作用(その2)』

     地球人類(その魂)の進化・向上のため避けて通れない清算である一大天譴と存在するかも知れない(としか今は言えない。存在しないかも知れない)フォトンベルトとの関連を取りざたされるアセンション(次元上昇)の頁に入る前に、想念波動の整理をしてみたい。

    〔話は彼方此方に飛ぶが、全ては何もかもつながっているのでどうしてもこういう傾向になってしまう。ご海容の程。〕

    【想念とは何か】
     2005年現在ここ数年の「成功法則」絡みの書籍はちょっとネット検索するだけでもウンザリするほどヒットしてくる。大多数は技術論と精神論のカクテルだ。精神分野に関しては単なる心構えから自己催眠、他者催眠、イメージトレーニングなどの願望達成方まで様々語られているが、どれも昔からある潜在意識活用法の焼き直しだ。
     潜在意識には善悪の判断はつかず、強くイメージして描いたものは必ず実現するという誠に都合のいい話だ。一部は正しいが一部は正しくない。全面的に正しいなら、この世は成功者ばかりとなる。ご都合主義で自分勝手な成功者ばかりになり、物欲、所有欲の権化(ごんげ)が幸福と自己満足を履き違えて闊歩するはずだが・・・。

     まあ、その効果はさておき、想いが潜在意識層に蓄積されるという側面は事実である。過去のトラウマが原因で慢性的に病状を呈していたものが、催眠療法などで自分でも忘れていた過去を思い出し、号泣したり、納得したりすると何十年来の病苦からあっさり解放されてしまったりするのは今時流行りの「癒し」の世界ではもはや常識となった。精神的病苦のみならず、肉体の症状も雲、霧のごとく消散する。「想念」が心と体を支持する元の要素なのである。退行催眠中に語られる内容が真実であるか否かは別として、潜在意識層に巣食っていた抑圧された感情を爆発、崩壊、解放させると何故か病気が治る。物凄く強い信念は思い描いた現実を引き寄せることが出来る。物凄く強い信念でなければならない。若しくは一人一人は弱くても、大勢集まると集合体として想念が強化される。「百匹目の猿」や「形態形成場理論」と根底を同じくする。
     
     問題はその想念を発する集団の心の清まりの程度である。心の清まりが足らない者が集団にて一斉に想念を発すると、それは悪想念の塊であるため、気象は勿論、戦争惹起まで影響する。ジハード(聖戦)を旨とする国や地域では殺し合い、戦争の絶え間がない。単に宗教や文化の問題だけではないのである。そして蓄積された想念が臨界点に達すると何らかの形で崩壊せざるを得なくなる。現象界(形而下)に具現化してくるのである。
     地球人の祈りが、特に大集団によって一斉になされる祈りが危険なのはこれが理由である。条件さえ揃えばいつでも怒り、恨み、妬み、責め、攻撃し、焦燥感に揺らぐ心を持つ地球人が、そうしたネガティヴな素地を内包したままでは、仮令(たとえ)それが「平和の祈り」であっても、集団で想念を発することは惑星地球にとって大変危険なことなのである。想念波動に清まりの足りない者が、想念を発すれば平和の祈りであっても、業想念層に負のエネルギーを蓄積することになる。平和の祈りや宗教で有史以来人類が平和になった試しがない。平和を願い、平和を声高に一心に唱えながら知らぬ事とはいえ負の想念波動を発しているのだから、むしろ世界は一層の混迷へ向かって加速していくのも不思議ではない。一心不乱に祈ることは大変危険なことなのであるが地球人の多くはこのことにまだ気付いていない。
    個人的治病のための祈りにおいても、肉親の祈りは治ることを祈りながらも、最悪の事態も想起して祈ることが多い。肉親だからこそ特に心配する心が強く働くため、(その心中を察しはするが)却(かえ)ってその心配どおりに事が運んだり、思わぬ悪しき結果を招いたりする。祈りに関する実験では遠く離れた地で、その患者とは全く面識もない試験グループに治病の祈りを一定期間させた方が統計的に好ましい結果を生むという。血縁関係にもなく面識もないため、その祈りには要らぬ欲が混載されていないからであろう。肉親だからこそ心配してしまうのは、厳しい言い方だが「自分か自分の家族さえ良ければ・・」の我欲の心の表出である。しかし人には同朋を愛したい心も、一なる創造主の一部(分け御魂)である以上、心の奥の奥には必ずある。他人の誰であれ治ることを祈る気持ちに愛念が宿るのも自然なことである。これが肉親となると我欲ゆえに途端に心配心が強く働き、却って悪しき結果をもたらす。地球人の弱さの所以である。

     これが想念と呼ばれるものである。潜在意識層、ユング的に言えば集合無意識層に蓄積された特に負の想いを業想念という。
    では、想念や記憶はどこに蓄えられるのか。潜在記憶にしろ、顕在記憶にしろ、脳細胞一つ一つに対応して格納されているわけではない。
    3Dなど光の照射で立体像を浮かび上がらせる技術やそれを転用してエンタテイメント、アミューズメント装置・施設は一般にもよく知られるようになったが、このホログラフ技術は、直交変換の一つで(直交変換は数学が得意な方ならよく解ると思います)、物体にレーザー光線を当てて反射した光とレーザー光線との干渉縞をある種のフィルムに記録して規則性のある模様を作る。このフィルムにレーザー光線を当てると元の物体の立体像が浮かび上がるのだ。このフィルムを半分の大きさに切っても、5分の1の大きさに切っても、100分の1でも、レーザー光線を当てると立体像が一部も欠けることなく完全な形で浮かび上がるのである。もちろん小さくしただけその立体像は不鮮明になっていく。フィルムのこの部分の情報を失ったので立体像のこの部分がごっそり欠けたというものではない。
     脳の記憶とはこれに似ていて、ある細胞が死んだので、そこに記憶していた情報がなくなったというものではない。もしそうなら自分の名前が記憶されている一個の細胞が死ぬと、自分の名前は永遠に思い出せないことになる。病院のリハビリなど全く意味がないことにもなる。脳細胞は一日に10万個死滅するといわれている。とすれば一日10万個の情報を忘れていくことになるはずだがそんなことはない。たった1日で10万個忘れるとするなら、その10万個の中には、歯ブラシという単語、妹の顔、ボールペンの使い方、信号機の色の意味などが含まれる可能性は相当に高い。例えば信号機の色の意味を保持している細胞が、さっき信号を渡った時には生きていたが、今死んでしまったので次の信号が赤なのに渡ってしまうなど危険極まりない世界で生きていかなければならなくなる。しかし、現実は不鮮明だったり、おぼろげ、曖昧な記憶になることはあっても、痴呆などの明らかな疾患でなければこのようなことはない。記憶の本質は脳細胞に保持されているのではないのだ。
     喩(たと)えだが、DVDのデータディスク(記憶そのもの)に問題がなくても、再生機器(脳)に故障など問題があれば何も再生できないように、脳は記憶を記録、再生するマシーン(レコーダ、プレーヤー)であり、記憶自体はその記憶に付随する「感情や想い」をも伴って「別の場」(DVDディスク)に保持されている。ここでは、これを顕在・潜在両意識層という記録層だとしておこう。意識層であるため、脳細胞をふくめ肉体を失っても(死んでも)その記録は消えることはないのである。脳障害で記憶を失うのは、記憶そのものを失うのではなく、記憶を「再生する機能」を失ったということなのだ。記憶内容が脳内にではなく意識層にあるなら、この世に強い執着を残した者がいわゆる成仏できない理由は、記憶と共に強い想い・感情を意識層に抱えたまま肉体を失い、意識層は残るので強い執着を持ち越してしまうからである。(だからこそ記憶の記録・再生機能である脳がある内に、つまり肉体をもって生きているうちに学び、気付くことが重要なのである。ネガティブな想いを意識層から出来る限り解消しておかなければならないと広く言われている訳である。そのための日常生活であり、自己分析であり、内省であり、修練なのである。その条件として用意された環境と日々の出来事なのである。)
     
    【波動とは何か】
     冒頭から業想念というキーワードを使用してきたが、想念という言葉を聞くと、急に玉石混淆の精神世界論の響きを連想してしまうが、それが嫌なら波動と言い換えることが出来る。
    【玉石混淆(ぎょくせきこんこう):玉と石、本物と偽物が混在していること。広辞苑によれば〔優れたものとつまらないものとが入り混じって区別がないこと〕。】

     大宇宙に存在する全ては有形・無形問わず全て波動である。振動といってもハズレではない。波動で「出来ている」と表現する者もあるが、これはおかしな表現である。原子や分子などの極微の物質が寄り集まって、肉眼で認識できる物体がそこに存在するように、波動で「出来ている」というと、波動という極微の物質のようなモノだと感覚的に勘違いされそうである。波動はモノではないバイブレーション、振動、周波であり、エネルギーそのものだ。地球人が可視光線と呼ぶ光も、不可視光線である赤外線も紫外線も、そこの椅子も机もボールペンも扇風機も、地球という惑星もそして「あなた」も波動である。「私が波動?波動ねぇ。解ったような解らないような・・。」ではあなたは何だろうか?細分化していけば、自分が各種元素の分子・原子となることぐらいは現代地球人なら誰でも知っている。では原子までバラした後はどうなるのか。ただの原子の塊がどうして「あなた」という形を保ち、動くばかりか、泣き、笑い、怒り、恐怖し、記憶するのか。あなたとは誰である以前に何なのか?あなたの肉体は究極的には物質の性質を持ってはいるが物質ではないのである。
     量子論(りょうしろん)を少しかじったことがあるなら直ぐにピンと来るであろう。「物質は粒(つぶ:原子)の性質と波(なみ:波動)の性質を持っている。」としている。(本当は物質は粒である筈がないのだが、地球の量子論を引き合いに出して記述を続けるので、ここでは粒ということにしておく。)そして物質の究極は物質ではない」これが現代地球の最先端物理学が解き明かした成果である。(量子論は、実は確立解釈、不確定性原理や波動力学などの物理学理論を一つにまとめた理論である。

     「理系」の学生でも量子論は大変難しいが、もしあなたがどちらかというと「文系」タイプであったとしたら、むしろそれは朗報である。量子論を肴に口角泡を飛ばして議論する立場にない文系のあなたは、理屈ではなくイメージと感覚でそのエッセンスだけを頂戴すればいいのである。現にその恩恵は大きい。今や地球人の必需品となった携帯電話も、この量子論がなければこの世には存在していないのだから。

     興味のあるあなたにはこの一冊

    「量子論」を楽しむ本   ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!

     もしあなたが量子論を『量子(りょうこ)さんに関してああだこうだと議論をする話』だと思っていたとしても大丈夫である。この一冊のどこにも『量子(りょうこ)さん』は登場しないはずだし、この一冊で少なくとも量子の概念を感覚として捉えられること請け合いであるからだ。
     
     尚、地球では量子ジャンプが量子論最大の謎とされる。原子核の周りに数個の軌道を持って電子はその軌道上を回転しつづける。電子が外側から内側の軌道に移ると、電子はエネルギー(=光)を放ち、内側から外側の軌道に移る時はエネルギーを吸収する。地球の量子論では電子が遷移(軌道を移動してエネルギーを放出、吸収すること)したことをまだ捉えることが出来ず、軌道間を電子が瞬間移動したことが理解できていない。実はこれそこが物体の瞬間移動を可能にする大いなるヒントだというと地球では未科学の部類で、「トンデモ科学」と揶揄されるにちがいない。
    (因みに戦艦エルドリッジの瞬間移動実験として知られ、アインシュタインも現場に居合わせたとされるフィラデルフィア実験は、全くのデッチ上げである。)

     有形・無形問わずエネルギーであり、波動である・・・つまり無形の想念はエネルギー、波動そのものなのである。以後想念波動として表記する。

     さて、この個々人とその総体である想念波動の在り方によって、今後惑星規模で地球人が体験する一大天譴とアセンションの様相が随分と異なってくる。

     次回は一大天譴を大難から小難へと緩和し、アセンションをより穏やかに迎える本題に入りたい。前後するかもしれないが、予言と未来確定のメカニズムにも触れるつもりである。これらのいずれも、想念の作用抜きには語れないのである。

     ここで少し寄り道をしていこう。「根本的悪は存在しない。現象界は相対的に仕組まれている。」という話である。

     突然だが色とは何だろうか?赤色とはどんな色だろう?白色とはどんな色だろうか?
    今ここに赤と白とチョコレート色のパッケージをしたアーモンドチョコレートの箱があるとしよう。あなたはそれを車に乗せて未明からスキーに出かける。ダッシュボードに置かれたアーモンドチョコレートの箱はやっと昇ってきた朝日に照らされ、赤と白の基調色に写真のチョコレート色を鮮やかに浮かび上がらせた。山間を縫うように走るあなたの車はやがてトンネルに差し掛かった。トンネルの中の照明は、その透過度を上げるためオレンジ色の光線を放っていた。そのオレンジ色の光線を浴びてチョコレートの箱の赤色、白色、チョコ色はそれぞれ極めて濃いグレー、オレンジ色、黒色に見えている。助手席に座っている友人が「トンネルの中って、なんか別世界だよねぇ。」と言った。明るいメタリックシルバーの車体のボンネットはオレンジ色の光線を受けて、何とも形容しがたい奇妙な色に輝いている。車体に映るオレンジ色の照明は飛ぶようにボンネットを後方へ流れていく。あなたはそれを視野の端で捉えながら言った。
     「そうだな。別世界だな。照射する光、つまり条件が変われば見えているものまで変わっちまうんだからなぁ。」すると友人がこう続ける。「じゃあ、本当の色はどっちなんだろうなぁ。」と。あなたは友人のその一言にハッとする。「本当の色?…そりゃぁ、赤…ん?本当の色かぁ?何だ?」2秒ほどとまどった後、あなたは友人に洪水のように説明し始める。
     「お前、今本当の色って言ったよな。本当の色なんかないんだよ。条件が変われば色なんてどうにでも変わるじゃないか!青の光ならどうだ?ピンクの光なら赤色はどう見えるんだ?チョコ色は?…そう考えると俺たちが見ている世界は条件さえ変わればどうにでも変わってしまう世界なんだよ!この太陽光の下では赤色と俺たちが呼んでいるあの色に見えているだけで、それは表現のほんの一例って事になる。《赤色なんて絶対色》は存在しないんだよ!全て条件によって変わる相対的な色しか存在しないって事だ!」あなたは少し興奮気味だ。友人は「だからどうしたの?そんなことでそんなに鼻の穴膨らますなよ。お前、鼻毛見えてるぞ。」と、トンネルを抜けた明るい車内であくびをしながら素っ気ない反応をする。本当にはみ出しているかもしれない鼻毛を無意識に抜きながら、あなたの思考は回転を続ける。
    「条件が変われば…か。今は色の話だが、そもそも俺の目が違う組織でできていたらどうなる?そうだ、犬はどうだ?犬にはどう見えてるんだ?他の動物はどうなんだ。昆虫なんか複眼だぞ。魚は魚眼と…どんな世界じゃ!まあ、何にしろ「絶対色」なんか存在しないって事だよな。待てよ。色だけじゃない。他の感覚だってそうじゃないか!硬い柔らかい、冷たい熱い 重い軽い…何かを基準にしてそう感じているだけで基準が変われば1グラムだって超重いし、地球だって超軽い。摂氏100度も冷たく、富士山だって低いって事になる。この世は相対的に仕組まれているんだなぁ。じゃあ、こう仮定できないか。現象は全てホログラフィックに存在している。感覚が条件で変わったりするだけじゃなくて、存在そのものが本当は虚構であり実在じゃないのかもしれないぞ。ちょっと行き過ぎか?まあ、いいや。」
     助手席で寝てしまった友人に一瞥をくれて、あなたはどんどんと思索の世界に分け入っていく。

     「絶対って何だ?実在って何だ?」
     量子論では物質の究極はもはや物質ではなく、波であり、振動であり、エネルギーである。また水素と酸素が結合すると水になる。酢酸になったり、ポリエチレンになったりすることはない。なぜだ?そこには法則があるからである。しかし水素も酸素も所詮究極は振動であり、エネルギーなのだから、物質としてそこにはないかも知れない。確かに粒としての属性と振動としての属性を兼ね備えてはいる。これらをまとめてみると、水素も酸素も究極は振動、エネルギーであり実在ではなく、動かし難く実在しているのは水素と酸素が結合すると水になるという法則そのものであるという事にならないだろうか。水素、酸素に限らずこの現象界にあるありとあらゆる物質と現象は五感で感じられるもの「そこに在るじゃないか」といえるものは実像ではなく全て精巧に仕組まれたホログラフィックな虚像であり、それを支持する不可視のありとあらゆる法則こそが実在ではないのか。数学を持ち出すまでもなく、算数で言えば足し算という目に見えない「決め事」が実在で、その「決め事」の結果どんな数字の組み合わせでも計算でき、目に見える結果は様々に変化する、と喩えられるかも知れない。

     地球人類の歴史も法則発見の歴史であった。地球人類がある法則を発見したからその法則が存在するのではなく、発見する遥か以前から、人類が存在しようが存在しまいがその法則は実在したはずである。今後、特に量子論やまだ確立されていない超ひも理論の延長上にとてつもない法則の発見があると、従来不可能だった科学技術が実用される事は容易に予想がつく。単に地球人類が未だ発見できていないだけの法則、即ち実在が山ほど在るに違いない。その実在の応用により、それまではこの現象界に無かった現象、即ち虚像を生み出すこともできるのであろう。
     ところでいわゆる「この世」が虚構で、「あの世」が実在界だとする考え方があるらしいが、これは誤りである。「この世」には物質、「あの世」には霊質とでもいうべき要素があり、共に物質、霊質を規定する法則が物質、霊質を支持しているのである。あの世もこの世もどこの世においても、実在は法則と全宇宙、全次元に偏在する大いなる思惟だけである。(その分け御魂である「あなた」の魂も実在であるのだ。)その分け御魂の進化・向上の為に用意された物質世界であり、霊質世界なのである。

     現界の住人にはこの物質界が実在のように感じ霊界をつかみ所のない世界と捉え、霊界の住人にはその霊質界とでもいう世界を実在のように感じ、現界をつかみ所のない世界と捉えているが、現界も霊界も(時間や空間までも)実在ではなくホログラフィックに存在している虚像の世界なのである。実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身(肉体ではない)であり、霊界も現界も含めいかなる次元時空間もそれを支える法則が実在なのである。そうした実在であるかのように感じる虚像の世界の中で、存在は肉体かそれに相当するものに宿り、それぞれの次元にてそれぞれの条件下で、魂の進化・向上の道を、生成流転、輪廻転生しながら進んでいくのである。実在は魂であり、現界も霊界も虚像なのである。

     これを般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」となろう。「色」とは現界や霊界の物質や霊質であり、「即是空」(すなわちこれ空である)の「空」は法則と喩えられる。すなわち物質、霊質を支える法則という見えないものだといっているのだ。また反対に法則があっての物質、霊質の現界、霊界であるのだと言っているのである。この色即是空を、「色」は現界、「空」を霊界とする喩えを見かけることがあるが、何度も言うように現界も霊界も共に「色」即ち現象界であり実在界ではない。「空」即ち実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身と宇宙一切を創造主の経綸下に治める法則なのである。

     下はシルバーバーチャンが高校生の時、現代国語の先生に笑われた図である。その先生は、教室のドアにはまったガラスをコンコン叩きながら、「(見えないものこそ存在し、見えてるものが)存在してないって?あるじゃん、ここに。ほれほれ、ここにあるじゃん。」シルバーバーチャン、お前はアホか?と困った顔をしていた。主旨は解ってもらえなかったようだ。

    false_image aはただの長方形。そこにbという条件が重なるとcのようにもとの長方形が、定規を当てるとまっすぐなのに、膨らんで見える。よくある錯覚である。

     これをaが実在、実像、魂。bがそれぞれの世、次元を規定する条件、法則。cを現象界と読み替える。あなたはいま全てを超越して外からこの様子を見ていると想像して欲しい。

     cの世界の住人を含むありとあらゆる存在は自分の身体すらそこに実在すると思い込む。万人が万人同じ条件下、法則下に置かれるのだから、全員同じように「錯覚」するのである。長方形が膨らんでいると誰もが信じて疑わない。唯物主義者などはこの範囲の中で唯物論を展開する訳である。例えば「本当はまっすぐだって?馬鹿なことを言うんじゃない。この図形は『科学的に考えて』膨らんでいるんだよ!誰がやっても同じ結果になる再現性のある科学なんだよ。しっかりしてくれよ。」と。しかし、長方形が本当は膨らんでいないと、外から見ているあなただけは知っている。

     aという進化する実在、cを支え、規定するbという実在、そしてcという進化を実践、促進する場、実在ではないホログラフィックな仮の場、「修行の場」である。

     相対世界なのだから当然、善と悪、陰と陽など対極を為す基本モデルで構成される。
    善と比べるから悪があり、悪と比べるから善がある。陰と比べるから陽があり、陽と比べるから陰がある。
    光が当たればそこに必ず影ができ、光が消えれば影も消えるではないか。
    善が強さを増せば、悪もそれだけ強くなる。この善と悪は一体何なのだろうか。

     昔、良寛和尚が足を洗った鉢で顔を洗い、水を飲み、食事をしたりするのを見て、衆生は汚くないのかと尋ねた。良寛和尚は「どこからが汚くてどこからが汚くないのか?」と問い返したという。どれが悪どれが善、どこからが悪どこからが善、どこまでは許せるどこからは許せない・・・人はどこかで線引きをする。

     日月神示にも「悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのざぞ。」「悪は悪ならず、悪憎むが悪ぢゃ」などとある。
     シルバーバーチャンなりに解釈すれば、何かしら「善」らしいものとの比較において「相対的に悪」でしかないのに、「絶対的に悪」であると烙印を勝手に捺し、これを憎み、責め、咎(とが)める時、そこにあるのは烙印を捺された「絶対的な悪」ではなく、憎む、責める、咎めるというネガティヴな悪想念であり、それが悪なのであるといような意味になろう。      
     相対世界では「絶対」は何もない。相対世界には存在しない絶対的善、絶対的悪を勝手に定義し、またその定義に自ら惑わされ悪想念を出すこと自体が悪だというのだ。この道理をしかと覚れば、例えば病気は根本的に悪ではなく、病の本当の意味も理解できるように仕組まれているのである。これが解る時、本稿の冒頭に述べた何十年来の慢性の病もあっけなく、または徐々に消えていくのである。のじま医院院長野島政男院長の著作「意識が病気を治す」で言われている事も根本は全く同じである。
     シルバーバーチャンが過去ログに「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」と書いたことと同義である。端的に言えば『相対的でしかない善も悪も超越して正しく生きよ。』となる。『正しく生きよ』とは、悪想念を発するなということである。この悪想念の制御が不良惑星人と優良惑星人との決定的差異であると、このシリーズ第2回の冒頭に書いたはずである。
     だが、現実はなかなか一筋縄ではいかない。例えば「争わなければ今、目の前で命を落としそうになっている友を見殺しにすることになる」ような状況で、どんなに正しいことでも・・と涼しい顔をしているわけには行くまい。力に力で立ち向かう事は愚かなことだ。しかし、力に花(理想論)で立ち向かうのはもっと愚かな事だ。そういう事態も起こりうる事も念頭に置いておかねばなるまい。一進一退しながら、思い悩みながら、進むが学びの道であるのだ。「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」は単に文字で表された情報であり、知識でしかない。「知っている」と「出来る」は似て非なるものである。事に中(あた)って、ケースバイケースで「出来る」を自らつかみ取って行くしか自らの学びはない。他人が代わりに学ぶわけにはいかないのである。

     シルバーバーチャル星人もベガ星人もプレアデス星人もどの優良惑星人においても、その高度な精神文明構築までの長い永い戦いの歴史は他でもない己の否定的想念との戦いの歴史だったのである。
     この己との戦いに勝利した時、少なくとも精神感応力は必然の能力としてその惑星人万民の属性となるのである。
    その後の精神文明、科学文明の発達とそれらの自由度の劇的な向上は加速度的に進むことを約束されるのである。

     本日、これまで。

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    シリーズ 第4回 『予言のメカニズム』想念作用と予言

     それにしても(どれにしても?)、巷(ちまた)の予言は本当によくハズレる。
     いついつにどこどこで地震が起きるとか、水害が起きるとか、「近所」で言いまわっているうちはいいが、ネットのあちこちの掲示板に容赦なく書き込み回るから、それらを起点にウワサは巡る、巡る・・・果たして、「大ハズレ」である。
     希代の預言者やチャネラーや歴史上謎の多い人物に自分を同化させる「不思議ちゃん」が神聖な自分を演出する一つのツールとして、「ブッこいた嘘」がネット上を駆け巡っているだけのことである。(TVのヒーローと自分を同一視して、マントをつけて公園を駆け回る幼稚園児のヒロ君と大差はない。ヒロ君はお父さんに買ってもらったナントカビームガンからナントカ光線を発射して、公園内のミキちゃんを殺したり、怪我をさせることはないからかわいいものだが・・。)こうした「不思議ちゃん」のヨゲンに振り回されないようにしたいものだ。

     不思議ちゃんのヨゲンはさておき、世にそれなりの重さで認知される予言もある。予言とは一体なんだろうか?その情報の源泉は何なのだろうか?どうしてこうも「見事に」ハズレるのだろうか?その理由は、そもそも真っ赤な嘘だからだろうか、それとも何か別の要素が絡んで外れたり、日付がズレたり、程度が変化したりするのだろうか?

    ***預言と予言の違い***
    【預言】神が特定の人を通じて、降ろした言葉、神託。
    【予言】未来に起こる未然の出来事を予め言うこと、またその言葉 

     以下は、予言のメカニズムについて、仮想惑星シルバーバーチャル星の学校(に類似の機関)で使用される初等教育内容を地球惑星人用に改定したものである。

    『予言のメカニズム』

     想念を扱う世界は(=このブログで言えば実在界)は暗在系や潜象界などと呼ばれる。集合無意識も大義ではこの領域にある。明在系に対して暗在系、現象に対して潜象、顕在意識(表面意識)に対して潜在意識(無意識)という構造である。

     地球人の願望実現の手法でよく用いられる「既に起こった事実であるかのように強くありありとイメージする」ような強い想起(想念波動)は、この潜象界にまずイメージを作り上げる事をやっているのである。潜象界に創られた情報がやがて現象界に実現するという訳である。その正否、正邪は別として、何度も言うように「先ず想念波動ありき」なのである。

     この願望実現の手法は、詰まるところ潜象界の想念波動情報を強い想念波動により書き換えているのである。願望実現法のみならず、日々の瞬間瞬間に発する想念波動は逐一自分の潜象界に自分の「想念ログ」として記録される。その効力は現象界に具現化されるまで消えることはない。否定的な想念波動の持ち主なら、その人生は押し並べて否定的なものとなるし、またその逆も真である。
     この願望実現のオモシロイところは、人生を良くしようと一心熱心になって、イメージ作りに勤しみ励むのだが、励めば励むほど、実は、≪私は不幸であるから≫と認めて願望実現方法で良くしようとしているわけで、結局は不幸である自分を知らず知らずに肯定して潜象界にその想念波動情報を送り込んでしまっている事である。
    現在の自分は三次元における過去に己が発した想念波動によって形作られているのだ。その責任はどうなるのかといえば自己責任である。自業自得ともいう。それは目をつぶり、なかったことにして欲しいといってもそうは行かない。潜象界の想念波動情報が現象界に具現化するという天則を一個人の欲なる都合に合わせて変える訳にはいかないのである。
     良くしようとすること自体が欲なのである。良くする前にすることは、与えられた現状が順境であれ逆境であれ、そのことに感謝することである。都合の良いことに感謝するのは当たり前だが、これしか出来ないのが地球人である。都合の悪いことに感謝できる魂の進化を遂げて初めて優良惑星人への道が開かれるのである。順境には感謝し、逆境には不平、不満、怒り、呪い、羨みなど否定的想念を以って反応する。なぜ逆境に感謝せねばならないのか。

     先に言ったように現象界は全て相対的に仕組まれており、絶対悪もないし、絶対不幸というものもない。一般的に不幸とされるものの一つに病気がある。病気になった理由は、その先に己の想念波動の乱れがあったことに気付かねばならないのである。人を呪ったり、憎んだり、羨やんだり、怒ったり、不平不満をぶちまけ、または内心に抑圧し、イライラとストレスをそのまま工夫なしに受止め、落ち着きなく日々を生き急ぎ、我こそはと自尊心満載で、我善しの暮らしを感謝の念も希薄なまま続けてこなかったかを気付かせるためにあるのだ。病気は絶対悪ではないのである。「生物」としては否定的想念がストレスとなり、大脳新皮質(知性の座)から大脳辺縁系(感情の座)へ、大脳辺縁系から脳幹(生命の座)へ浸潤すると、生命力を司る脳幹に機能低下が起こり(それが直接の致命傷とはならなくても)、自律神経失調を来たし、ホルモンバランスを崩して、その後は様々な病気となって現れる。癌ですらそうである。脳幹の機能低下に伴う免疫低下によるもので、癌症状以前に免疫低下が全身に起こっているのである。ここには自律神経失調による低体温も関係している。(過去の関連記事はココ

     優良惑星人と不良惑星人の違いはこの想念波動のあり方が決定的だと言った。高き想念波動へと進化するためには「気付き」が必要だと言った。気付く機会は日々の暮らしの中に散りばめられているとも言った。表面意識の自分ではない、潜在意識の深いところにある自分自身が病気によって「背水の陣」を敷き、気付きを積極的に得ようとする姿勢が加速する。好きで病気になる者はいなくても、進化したいと性向付けられた魂の次元での本来の自分が病気や不幸を引き寄せているのである。薬害にしろ、ウィルス感染にしろ、これらは「切っ掛け」であり、「原因」ではないのである。

     また、過去世からの課題として病気や不幸を背負ってくる者もある。それは肉体を持った以上記憶は封印されるので、過去世のどこかで犯した過ちかは現在を意識できる自我の記憶では「身に覚えのないこと」であるが、一切の事象が記録された意識層、即ち魂の記憶では(転生して時代も変わり、別人となり、姿かたちは違えども)紛れもなく同じ魂であるため、転生世代を超えた「一連の課題」をこなそうと努力する姿なのである。またそうした魂を子供として持った親を始め、その魂が転生した先の人生で関わることになる友人知己らも、その魂とその世で出会い、触れ合うことで、また学びを得ていくのである。魂の転生は、その時代背景、(地球の場合は)国家、両親、兄弟姉妹関係などの家族構成や地域的、経済的家庭環境など実に様々なことを勘案して決められる中々の一大事なのである。

     よって、如何(いか)なる状況下に生まれ出ても、その状況こそがその魂にとって最も相応しく、よりよく魂を磨く環境・状況なのである。「生まれる時代を間違えた」「両親は選べない」「こんなことなら生まれてくるんじゃなかった」など天に唾する響きをもつ言霊(ことだま)と心得ねばならない。

     地球人はよく平等を口にするが、この一連の転生を視野に入れるとき、世にいう平等は悪平等であるとその眼に映るであろう。富裕層に生まれることがその魂の学び・進化・向上において弊害となるなら、富裕層に生まれるはずもない。その代わり頑丈な身体をもつような遺伝子をもった両親を選んでいたり、激しい競争社会とは隔離された長閑(のどか)な環境で一生を過ごせる人生であったり、事情は千差万別である。シルバーバーチャンが、他人を羨(うらや)んだり、妬(ねた)んだり、不平を言ったりすることは否定的想念だと繰り返し言うのは、これがその背景にある。

     『平等の中に不平等を観じ、不平等の中に平等を観ずる』のである。一見平等に見えることが魂の進化・向上からみると不平等であり、一見不平等に見えることが魂次元では平等であるということである。

     一例として、男か女かという時、ある時代に男として生きた学び、別の時代には女として生きた学び、その時代には男として生きるのが目的とする学びを得られるなら男として転生する学びというように、学びつづける同一の魂なのである。これを今生(今回の転生、今回の人生)限りの切り口だけを見て平等を口にする事の不平等さを観よという事である。男として生まれなければ解らない学び、女であるからこそ学べる気付き・・・それぞれが同じ魂に転生ごとに刻み込まれて、成長していくのである。

     
     「病気」の話に戻るが、大病を患った者ほど、思い悩みながらも、己の今までの生き方を振り返り、物の見方を変え、人に対しても寛大となり、大きく成長していく現状を見れば納得のいく道理である。病気を機に、大きく気付き成長する姿は実に尊い。そして彼らは口を揃えて言う。「病気になって良かった。」と。自分の心に内在する否定的な自己を不幸のお蔭で乗り越えた者だけが口に出来る輝きを放つ言葉である。病気のみならず、現象界のあらゆる不幸の存在意義は気付きのためにあるのである。

     感謝の念ほど高い想念波動はない。感謝の念は、願望実現マニュアルを読み漁り、我善しの気持ちで己の小さき願望を成就させようと躍起になっているより、潜象界に既に積上げた想念波動情報を書き換える力を遥かに強く有するのである。過去の記事に述べた「足るを知る心」もこの感謝あればこそ湧き起こるのである。

     反対に、願望実現法で願いが実現するには実現したが、思い描いたようなシナリオ通りに事が運ぶとは限らないという事もよく起こる。
     例えば、1億円を手に入れたいと強く、強く思い描いて、それが目論見通り想念波動情報として記録されたとする。やがで1億円を手に入れることが出来たが、その1億円は自分の子供が自動車事故で死亡して下りた保険金だったなどという事かも知れない。どういうわけだか身に余る僥倖(思いもよらぬ幸運)を手にすると、その反動であるかのように次々に不幸な目に遭うことは巷によく聞く話である。

     さて、聡い読者なら既に先見しているであろうから結論を言うと、予言のメカニズムは潜象界の集合無意識層に記録された想念波動を、三次元のある時点でイメージなどの情報として読みとり、人間の言葉にしたものである。

     「先ず想念波動ありき」であるから、現象界に具現化する「未来」は潜象界に波動情報として既に在るということである。惑星規模の予言であれば、人類全体の集合無意識層からの情報であるし、一個人に対する予言であればそれなりに限定された情報を読み取っていることになる。
    偉大な予言者か、それとも希代のペテン師かと言われたノストラダムスの予言も、三次元時間でいう今から450年近く前の時点で、業想念波動情報にアクセスし、これを読み取り語ったものであった。「この想念波動の状態で推移すれば、現象としてはこうなる」というイメージ、映像を読み取っていたのである。予言が記述された時期に(三次元地球時間上)近い時期のものはよく「アタリ」、時代が下った後の予言は次第に「ハズレ」るようになってきている。特に地球の西暦でいう1960年辺り以降の予言はよくハズレている。(この理由こそ明日後述するアセンションと大きく関わるのである。)個人の運命も人類の運命もこの潜象界の意識層にある想念波動次第で如何様にも変わるのである。良くは、多くの深い気付きを得て、想念波動を調整した優良惑星人への道程であり、悪くは「平和の祈り」などに代表される、想念波動の清まりの足らない者達による盛んな想念発動が波動情報を汚し、現象界に具現化する事態を悪化させ、混迷の惑星・地球を目も当てられない惨状へと導く道程である。その惑星の命運はその惑星人が、自ら発する想念波動により決するのである。ここに他のいかなる惑星人も介入は許されない。悪い意味でも良い意味でも自業自得なのである。
     予言がよく外れる理由は、潜象界の想念波動情報に変化があったため、後に具現化する現象界の現象にも変化があったということである。外れ方は想念波動情報の変化の仕方次第である。全く外れる場合や時期がズレる場合、場所が変わる場合など様々である。このことを知っていないと、「ほら!ハズれたじゃないか。予言なんてありえない。」と、予言を盲信しないことは良いことだが、これらの人々に想念の作用そのものまでも否定させる危険性があることも理解しておかなければならない。これらの予言の足元にも及ばない「不思議ちゃん」のヨゲンに関して言えば、それが妄想であったり、波長の同調性により低級でオカシな霊体に憑依されてビジョンを見せられたり、単なるオカルトヲタクの戯言であったりするのだが、何であれ、軽はずみに啓示、神託と言って、自己顕示欲の発露をヨゲンに求める理念の眠った「不思議ちゃん」はこれらの「予言ハズれなら想念作用もなし」と否定する「ゼロか百か」(All or Nothing)しかない発想の人々に対して罪を犯していることに気付かねばならないのである。優良惑星への道を左右する主要ファクターである想念作用の否定に人々を図らずも導いてしまう「不思議ちゃんの悪戯」の代償は大きい。どう具現化するかはその「不思議ちゃん」が身を持って学ぶことになるであろう。

     ***個人の「運命と宿命」に関しては前の世から抱えてきた課題と今生における気付きと想念波動のあり方を踏まえて別の機会に詳述する。***

     本日これまで。

    【付録】
     お勧めの書籍
    生きがいのマネジメント

    生きがいの本質

    生きがいの創造

    (上の三冊は全て、福島大学経済経営学類 教授・Intercultural Open University 名誉教授の飯田史彦氏による著作。)

     ***上記書籍はそれぞれハードカバーと文庫本があります。文庫版(PHP文庫)が割安です。***

     飯田史彦先生も現在は既に有名になったため、この著作を手にされた読者も多いと思う。想念波動にまではっきりとは踏み込んではいないものの、転生の概念をしっかり捉え、結果的には想念波動のあり方を説いているのと同じことになる初期三部作。唯物思想の学府で、アカデミズムの権化であるはずの学者が、当時これを著したことに大きな意味があった。発行から5年~7年が経過しているが今も初めて触れる人には新しい学びの書籍である。真理には新しい、古いはない。真理はいつの時代でも人の心の琴線に触れ、響くものである。何度も読むことをお勧めする次第。今後もこうした潮流は学府の常識を緩やかに変えていく。有り難いことである。

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    シリーズ 第5回 『一大天譴とアセンション』

     今回で第5回となるこのシリーズで、第4回までに述べてきたことを極めて簡単にまとめると、
    『潜象界と現象界がある』
    『現象界には現界である物質界や霊界がある。霊界も様々にある。』
    『現象界の物質の究極は物質ではなく波動である。霊界の霊質とでも呼ぶ要素も波動であり、物質・霊質即ち物質界・霊界はともにホログラフィックな現象界であり実在ではない。実在は潜象界である。』
    『物質も霊質も、支える実在は波動である。』
    『想念も波動である。』
    『物質界、霊界などの現象界も潜象界も貫いて存在できるのは想念波動とその源泉である魂のみであり、これが実在である。実在の大元は、分け御魂の大元である一なる創造主であり、路傍の石にさえ波動として宿る全次元に偏在する大いなる意志である。』
    『潜象界の想念波動情報は現象界にやがて具現化する。』
    『潜象界の想念波動情報は現象界の存在(人類など)が発する想念波動で変化し、変化した潜象界の想念波動情報は現象界に具現化する。よって、現状の想念波動を変えれば未来は変わる。』
    『予言は現状の想念波動情報を読み取る事を意味する。』
    『現象界は相対的に仕組まれた世界であり、全てが相対的に存在し、絶対はない。絶対悪もなく、絶対善もない。相対的悪を絶対的悪と勝手に定義して、それを憎む悪想念こそが悪である。善悪を超越して正しく生きよ。』
    『悪想念を発するなかれ。』
    『気付きを得よ。その機会は日常の暮らしの中にこそある。』
    『発する想念波動次第で惑星地球と地球惑星人の未来は決する。』
    と言ったところであろうか。

     詰まる処、波動次第だということである。こうして地球人類の命運を決する想念波動について長々と記述してきたわけであるが、物質である地球全体を考えても同じ事である。想念は波動そのものであるが、物質を支持するのも波動である。また、地球も波動が支持し、物質としてそこに存在しているのである。

     その地球も法則に従い、地球開闢以来その波動振動数を徐々に、徐々に上昇させてきた。

     また、宇宙に存在するものは全て波動であり、一定の周期を持っている。ある振動の波が一定期間に繰り返す回数を周波数というし、その幅(大きさ)を振幅という。小は電子、中性子、陽子から大は一つの銀河に至るまで、あらゆるものが振動し、周期を持ち運行されている。小周期から大周期まで様々に存在しながら宇宙は一つの生き物であるかのように躍動しているのである。地球もこの周期を、地球を進化の足場としている生物(肉体的)、生命(精神的)の一層の進化・向上のため、周期単位で波動を上昇させていくのが天則である。

     これまでの地球を大局的に観ると、原始星時代の波動から不良惑星時代へのシフトの中で、波動はそれなりに上昇し続け、地球波動の上昇に付いていけなくなった生物は滅亡してきた。例えば地球を支配するかのように大繁栄した恐竜は滅び去った。生命を進化させようとする地球の波動上昇に付いていけないため、地殻変動と気象変化、それに伴う植物の変化、それに伴う草食竜の変化、それに伴う肉食竜の変化の中で、環境適応能の限界を迎えて滅んだのである。もちろんそれは終わりを意味するものではなく、新たに肉体的に進化して登場してきた生物として生まれ変わっているだけのことである。恐竜の時とは異なり、生物的に新たな脳の発達を得たその生物の体と生活でしか得られない魂レベルのそれなりの学びがあるのだ。
     このシリーズにおいて過去、脳は意識や記憶の再生・記録機器であると記述した。脳の発達具合で親子間の愛情を感じたり、仲間意識を感じて協力したり、グループを作る知恵を得たり、果ては抽象的概念を生み出す能力を得たりしていく。その記録機器である脳を通じて意識層、魂に記録するのであるから、生命としての魂を進化させる為には、生物としての肉体の進化、種の進化が必要なのである。

     こうして「生命」の進化の揺りかごである地球は、「生命」の受け皿である「生物」を進化させるため、波動を上昇させ続けてきたのである。しかし、これは原始惑星から不良惑星までの上昇の仕方であった。今地球が差し掛かっている周期の境目は不良惑星から優良惑星と言われる進化の途上である。即ち否定的想念の完全制御が必須条件であり、誠に厳しいものである。
     地球波動の上昇により、その振動数を上げていくと植物も動物もその波動に適合したものだけが生物として地球上に存在することになる。反対に上昇する波動についていけなければ、嘗て恐竜が滅んだように淘汰されることになる。実際に、今回の波動上昇で想像を越える数の人類が淘汰されること(肉体を失い、死亡すること)は間違いない。ただし(恐竜の時と同じように)これは決して「終わり」を意味しない。波動上昇に付いていけない人類は、波動上昇した地球に二度と転生することは出来ないため、似たような不良惑星に転生して、地球惑星人として生かされた間にこなせなかった課題に再度取り組むこととなる。その転生先の不良惑星も波動上昇をする。そして次の「大いなる飛躍」まで何十万年かの不良惑星人としての暮らしを強いられる中、課題を少しずつこなしていくことになるのであり、それだけの事と言えばそれだけの事である。自我では意識できないが魂レベルでは、その進化が遅々として進まないことに大変傷つき続けることにはなる。これは中々の苦痛である。

     さて、今回の周期の境目における波動上昇は不良惑星から優良惑星への飛躍であるだけに、否定的想念の大掃除をしておかねばならない。即ち今回の周期の境目は、業想念層に蓄積した地球惑星人の否定的想念の総決算期でもある。優良惑星化した後、即ち否定的想念を多大に宿す惑星人の淘汰後、新たに悪想念を発する者はいなくても、業想念層に否定的想念を残したままにしておくわけには行かないため、どこかで清算してしまわねばならなくなる。
     なるべく緩やかに崩壊させるのが望ましいが、蓄積された業想念のエネルギーは半端ではない。それなりの衝撃は覚悟せねばならない現状なのである。その衝撃を少しでも緩和しようと、既に崩壊は徐々に、しかし加速して、始まっている。今まで人類の我欲で築き上げた社会機構を巧みに利用して隠れていた(相対的)悪が炙り出されてくるのである。具体的には政治的、社会的犯罪など財界、政界の膿もどんどん出てくることになっている。惑星人の価値観もずいぶん揺れ動く時期である。信じていた価値観が次々に崩壊し、本質の見えない人々は右往左往しながら地に足がつかず、より一層刹那的な生き様を選ぶものまで現れる。地域的、国際的戦争、止まらぬ海洋汚染、大気汚染、地質汚染による温暖化、洪水、降り注ぐ有害宇宙線、酸性雨、更なる環境破壊と資源枯渇による世界参加の熾烈な駆け引きと争奪戦、食の危険と食料不足などなど世はまさに「終わり」を象徴するかのごとき事象、現象で混迷の極みを迎える。ある者がローマ帝国滅亡前夜と形容するほど廃退した世となっていく。飛躍の前の膿出しであると同時に、こうした状況にあっても、確実に観るものを見据え、心惑わされず、信念揺るがず、自己確立をしつづけようとする者もある。この者たちこそ、新生地球を担う礎となるのである。そして現在これらの者は社会に埋もれていることが多い。他を押しのけてでも這い上がろうとする我欲少なき故である。我欲が比較的少ないため、我欲を欲しいままに作り上げられた強者のための社会機構の中で頭角を表すことは至難の技だからである。

     この(相対的)悪として具現化する業想念が最も激しく崩壊する時こそが「一大天譴」と呼ばれる天変地異、天災地変なのである。この天譴は地球史上4回起こっている。現存地球人類以前の高度文明もこれで崩壊している。ポールシフトにより急激に地殻変動が起こり往時の大陸は瞬く間に陥没し、大海は一挙に隆起して、跡形もなく文明は滅んでしまった。現存地球人類にその痕跡をはっきりと見つけることは困難ではあるが、一部に痕跡をとどめるものがオーパーツとして見つかることも極めて稀だがある。

     「先ず想念波動ありき」である。この一大天譴の潜象である業想念層をいかに書き換えるかが人類に残された望みである。想像を絶する蓄積エネルギーであるため、全く何もなしというところまで持っていくのはもはや絶望的である。今こうしている間も、世人の多くは飽食とより多く所有することに浮かれ踊り、そのための熾烈な競争に突き進み、そうした社会機構に呑み込まれた非力な小市民も好む好まざるとに関わらず、喘ぎ苦しみ、不幸を他人のせいにして、わが身の不遇を呪い、人を憎み、所有の多さを羨み、不平等に不平不満を溜め込み、爆発し、相互に不信感を抱き、生きる真の目的も判らずさ迷い、さも思いやりの心強い優しき人であるかのごとく心配し、相対的悪を咎めて怒り、悪想念を欲しいままに出して、業想念層への負のエネルギーは営々として蓄積されているのである。

     しかし、何度も言うように絶対悪は現象界にはない。一大天譴といえども悪ではなく、建設前の大破壊である。飽くまで、建設的ベクトルをもった大破壊なのである。どんなに激しいものであっても、それで地球がなくなってしまうような幻想を抱くのは大間違いである。地球はそれでもなお淡々とその波動を更に更に上昇させていく。

     その後の地球人のおよその経緯は本稿第1回に記載したとおりである。

    その部分を再掲載する。

    いずれ地球人もシルバーバーチャル星人のように脱皮する時が来るが、自助努力と外部の強制力(地球規模の災害等を体験する事により、地球人類がそれぞれのイデオロギー主張とマネーに奔走する(奔走せざるを得ない)自己の有り方に心底疑問を感じ、『本当に大事な事』は何なのか精神的覚醒を惑星規模で地球人に促すトドメの力)による艱難辛苦を乗り越えた者達が新生地球人類として再起するまで、ここでこれから述べて行くシルバーバーチャル星人と地球人のギャップは埋まらないのである。

     そしてシルバーバーチャンはこうも述べた。

    **正しくは「強制力」でも「外力」でもなく、地球人自らが招く結果なのだが、ここでは「想念の作用」を詳述していないのでいったん「強制力」や「外力」と表現し、あたかも外からきたもので、人類には責任のない事象のように扱っている。実際は人類に原因があるという事をいずれの機会にかあらためて詳述する。**

     想念作用の概要を既述した今、一大天譴は地球人自らが招いた現象と理解できるであろう。波動の上昇そのものは天則であるが、その歪(ひず)みとなって具現化する現象の原因は業想念にある。その業想念は生まれ変わり死に変わっても中々気付き得ずに、悪想念を欲しいままにしてきた人類自らの責任なのだ。

    そして・・・

    ・・・年を追うごとに災害の規模が大きくなってきているが、この時働く強制力はこれらの比ではない。ガス、電気、水道などライフラインはもとより、家屋、ビルや道路や橋など社会インフラも壊滅的状況となり、貨幣経済システム始め、一切の社会システムが完全に麻痺、崩壊する。住むところも避難するところもなく、生き残った(生き残らされた)心ある人類は、焦土と化した混沌地球で、全くのゼロからのやり直しを余儀なくされる。従来の社会システムを踏襲した金銭勘定などしている暇もなく、互いに命がけで助け合う淘汰後の新生地球人類の結束は強く、貨幣経済をそのまま忘却の彼方へと追いやっていく。ここに互助の精神と相互信頼に基づく新しい社会形態の原型が構築されるのだ。この一大転換に乗じて、嘗ての盟友、朋友、兄弟姉妹であり、すでに高い精神文明に帰着した琴座の系譜を持つ惑星人が大挙して援助の手をさしのべる。淘汰前とは異なり、新生地球に辛うじて生存を許された地球人、即ち優良惑星人「一年生」に手を差し伸べるわけである。淘汰後の世界には怒り、憎しみ、相互不信、利己的、攻撃的、犯罪的な地球人はいないため・・・・

    と、ここに繋がるのである。

     精神世界に関心ある地球惑星人の間でアセンションと呼ばれる「イベント」だが、アセンションは次元上昇のことであり、厳密には地球開闢から連綿と実行されてきているのである。今回の波動上昇を特にアセンションと呼ぶのは波動の上昇がある臨界点を超えて、次元の上昇にまで届いてしまうためである。

     次元の上昇というとピント来ない惑星人も多かろう。実際に次元がどう変わろうがそこに存在する惑星人は感覚的に次元か変わったことを殆ど認識できないのである。(ゼータレチクル星人が自らの過ちで引き起こした次元シフトとは性格を異にするが、その際でもゼータレチクル星人は次元シフトに気付かなかった。)
     
     ただし、これではつかみ所がないため、地球惑星人の感覚的に解る範囲で次回の記事で展開することとする。

      一大天譴は、優良惑星への昇格に伴い「禍根」を残さぬための大掃除であり、人類の業想念の崩壊現象である。
    次回(シリーズ第6回)は一大天譴、アセンション後のシルバーバーチャル星に近い状態となった新生地球の様相を書き記してみたい。

     シリーズ第7回以降は、一大天譴を穏やかに乗り越え、アセンションをスムーズに実行するため、地球惑星人が為すべきこと、あるべき心の状態を徒然に綴っていく事になるであろう。

     シルバーバーチャンが綴る「ベジタリアン生活」がそれとどう関係があるのか、その経緯の中で明らかになっていくであろう。

     「気付きは日々の暮らしの中にあり。」深山幽谷に篭もって得るものではない。

     本日これまで。

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    シリーズ第6回 『新生地球再建』所有なき世界

     シリーズ第5回では地球の波動上昇は地球開闢から連綿と続いてきており、地球の波動上昇からあぶり出されるように具現化する業想念の崩壊が天譴となって現れるとした。正に阿鼻叫喚の地獄絵巻が地上に展開されるが、これは飽くまでも「建設前の大破壊」である。新生する地球に、営々と積み上げられた人類の悪想念の蓄積である業想念はあってはならない。そしてその後に実行されるいわゆるアセンションは、天譴が「古い家屋の解体」だとすれば、新しい家屋の「基礎工事」である。「家屋本体の建設」ではなく「基礎工事」である。「家屋本体の建設」は飽くまで新生地球人類によるものだからである。アセンション信仰者の中にはアセンションをもって万事佳(よ)しとする安易な考えがあるが、「他人の褌(ふんどし)で相撲を取って」はいけない。片づかない机の上の物品を、乱暴に段ボール箱に放り込んで、実質は何も片づいていないのに、「ああ、すっきり!綺麗に片づいたわ!」と言っているようなものである。押入を開けると「雪崩」が起きる部屋も同じである。

     さて、実は一大天譴は地球の西暦では2000年か2001年に起こるはずであったが、このシリーズの「想念作用」の頁で述べたとおり、業想念の想念波動情報が変化したため時期がずれ込むことになったのである。ここには神霊のお働きとその下働きをする一握りの人類の尽力もあり、延ばしに延ばされてきている。本来なら業想念の崩壊は今この瞬間に起こっても不思議ではないのである。しかし、2012年12月に訪れる所謂アセンションは惑星の運行によるものであるため、アセンション自体を先延ばしにする事はまかりならない。
    つまり一大天譴は最大限引き延ばしても2012年12月までとなる。そして、現状の業想念波動の状態では一大天譴とアセンションはほぼ同時というほど立て続けに起こると読まれている。つまり2005年10月現在、後7年2ヶ月以内の大激動となる。出来る限り「小出し」に天災地変が起こり、一大難を数小難へと分散させてゆかねばならないが、それは現存地球惑星人類の日々発する想念波動次第である。

    後7年2ヶ月である。この短時間にしなければならない己の否定的想念波動の浄化は山ほどあるはずである。皮肉なことに悟りの度合いの高い人ほど己に厳しい故、「山ほど」が「海ほど」に思えて途方もない気持ちになるかもしれない。反対に気づきの低い人ほど、自分はそこそこの者であると思ってしまうのでなかなか進歩していかない。また、未だに唯物思想にしがみ付き、単なる肉の塊として生きる者にあっては論外である。いずれにせよ、決して諦めてはいけないのである。その諦念こそ悪想念の一つである。変な悟りをして諦めることが悟りだと勘違いしてはならない。

     一大天譴の様子は日月神示の随所に出てくるので、時間とお金の在る方は書籍を求められることをお勧めする。日月神示は独特の表現方法で最初は違和感を感じるに違いないが、読み慣れると心地よく響くようになる。例えば次のようである。
    『神の経綸(しぐみ)には狂ひ無いなれど、臣民愈々(いよいよ)苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうち廻らなならんのざぞ、神も泥海にのたうつのざぞ』
    『天の異変気付けと申してあろが冬の次が春とは限らんと申してあろが、夏雪降ることもあるのざぞ。神が降らすのでないぞ、人民降らすのざぞ』
    『八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な想念や肉体では生きてはいかれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ』
    『人民四つん這ひやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ、大地震、ヒの雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でものがれることはできんぞ、天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ』
    『富士は何時(いつ)爆発するのざ、何処(どこ)へ逃げたら助かるのぞと云ふ心我れよしぞ。何処に居ても救う者は救ふと申してあろうが。悪き持つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ』
    『浄化した高級霊ともなれば人民に判るような感応ほとんどないぞ。霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。はげしくなるぞ』(現在すでにオカシナ霊能者がうようよ世間に現れてきた。要注意。)
    『世界ゆすぶりて知らせねばならん様になるなれど、少しでも弱くゆすりて済む様にしたいから、くどう気をつけているのざぞ、ここまで世が迫りて来ているのぞ、早く気つかぬと気の毒出るぞ、その時になりては間に合わんぞ』

    《一大天譴の様子を示した箇所は五万とあるのでこれ以上は掲載しない。》

     さて、シリーズ第6回『新生地球再建』と題して、その特徴の一つである所有のない世界観を述べてみたい。
     一大天譴とアセンションを経験した地球惑星人類は、浄化された地球の建て直しに向けて立ち上がった。
     一大天譴は凄まじい大破壊ではあったが、焦土と化した地上だというのに人々の心はなぜか喜びと強い意志と希望に溢れていた。そこに悲壮感も喪失感もなかった。崩壊という具現化により一掃された業想念の影響を受けなくなった彼らはその稟質から誠に高邁な波動を発し、高まった地球の波動と高次の神霊界の波動を受けて、至福の時代の開闢とその歓喜に打ち震えるのであった。
     一なる創造主に対する絶対信頼とその分け御魂である同胞(はらから)との相互信頼に支えられる時、新生地球人類に開けない未来はない。

     まず、荒野同然となった地表に旧惑星時代の各国家から同胞集い、優良惑星人の援助を受ける。このとき彼らは、自分達が言語によらずコミュニケーションを図っていることに気が付いた。嘗(かつ)てどこの国家に属していて、どんな言語を使用していても全く関係なく、いやそれよりも遥かに正確に意志の疎通ができることに彼ら自身が少し戸惑いを覚える程であった。この変化はアセンション時に遺伝子レベルで身体も脳も変容をきたしていることがその肉体側の理由として挙げられる。しかし、その本質は脳の器質的変容のみにあるのではなく、脳を道具として作用する精神そのものの変容にあるのだ。(日月神示ではこれを「半霊半物質」の状態と表現している。後に明らかにしていくが、ここでは新生地球は三次元に存在しないとだけ言っておく。三次元には存在しないアセンション後の新生地球では半霊半物質の身体でなければ棲息出来ないのである。では、三次元上の地球惑星の様相はどうか。それは三次元における現火星の様相に酷似するのである。)
    新生地球に半霊半物質の身体を持ったまま生かされることとなった新生地球人類は、嘗て不良惑星時代においても、いわゆる第六感的作用を実体験していた。それは明確に意識できた者もあれば、おぼろげな不思議体験として経験した者まで、その表出する程度は様々であった。それが一大天譴とアセンションを通過して、極当たり前の確固たる能力として開顕した理由は、旧地球惑星時代に、彼らは日々の気付きと学びと反省により心の調整を図り、精神感応力の素地が出来上がっていたが、業想念、旧人類の集合無意識の影響が余りにも多大で、それが感応を阻害していたためであった。電波状況の悪い中、何らかの発信機、受信機での送受信を行なうようなものである。また、この仕組みは不良惑星地球に重なる「悪想念の海」の中で、それらに直接曝されないようにするための神霊の庇護によるものでもあった。不用意な精神感応により低次の波動を受ければ、肉体にも悪影響が及び、体の不調、病変を招くのである。旧地球惑星時代に、低次元の意識体に憑依され、吐き気を催したり、悪寒がしたり、果ては肉体的病変を伴ったり、精神に異常を来たしたりしたのは、この不用意な精神感応によるものであった。基本的には自らが低次元の波動を発していない限り、波長同調性の法則により、低次元の精神体を引き入れるようなことは起こらないが、新生地球に生かされることになるほどの、地球惑星人にしては高い魂は精神感応力が強いため、弾丸飛び交う戦場を裸で歩いているようなものなのでブロックが必要であったのである。シルバーバーチャル星人が旧地球惑星時代に、誰とでも交流するわけには行かなかったのは同じ理由であった。精神の本質を蝕まれることはないが、肉体的には見た目にアレルギーのような反応がでたり、腫瘍が出来ることを避けるためであった。

     この確固たる精神感応力により、旧地球惑星時代の生物学的頭脳の良し悪しは全く関係のない世界が展開される。知識など瞬時のうちにやり取りができるため、旧地球惑星時代のように頭脳明晰を誇り、それで他を出し抜き、名誉、地位、金銭を獲得し奢ることは新生地球では起こり得ないのである。この世界では魂、霊位、霊性の高さ、即ち愛念の強さのみが全ての根源であり、価値基準なのであり、生物学的頭脳の出来不出来は全く問題にならない。(シリーズ 第3回『想念作用(その2)』の記述のように、そもそも脳は再生・記録器であり、あらゆる記録は潜象界の魂レベルで為され、よって脳を失った死後も保持される。)「あなたの知っていることは私も知っている。私の知っていることはあなたも知っている。吾等の知っていることは神霊も知っている。」のである。互いは一なる創造主の分け御魂であり分離不能という認識は勿論のこと(嘗ての不良惑星地球でも「スピリチュアルワンネス」というように表現されていた。)、知識の共有という末梢レベルにおいてすら、自他一体感は作用し実用されているのである。従って、例えば一方である人を愛しているが、その一方で別のある人を憎んでいるという分裂もない。また、この世界には「専門家」という者は存在しなくなっていく。

     シルバーバーチャル星にも職業上の生涯これこれの専門家という者は誰一人として存在していない。頭脳の良し悪しを誇る者、反対に卑下する者もいない。それで財を成す者もいない。そもそも財の所有という概念が存在しないのである。第一、自然のものを所有するとはどういうことか。宇宙一切、一なる創造主より発した波動に支持され、即ち宇宙一切の潜象界も現象界の物質も霊質も、創造主の御経綸下にあり、誰それの所有とすること自体が不自然極まりないものである。

    土地は地球惑星の一部であり、それを線引きして所有し、山々の木々も自然に帰属するものであるのにそれを切り出し値段をつけ、買い付け、家を建てて所有し、または庭木と称して値段をつけ、買い付け「私の庭木」として所有し、仲間である犬、猫に宿る生命をも愛玩動物という枠組みにはめ込み、これに値段をつけて売買して所有する。それらの所有物に損害を与えた与えないで争いを起こし、損害賠償に備えて保険制度を作り「安全」「保障」さえも所有する。

    自動車始め様々な機器など物理、化学反応などを応用して作り出し(その技術未熟故にそのままでは自然には帰らぬものまで作り出し)所有するも、そもそもは自然に既に存在する原料を加工したに過ぎず、元は大自然に帰属する要素である。
    無からの創造ではなく、大自然に帰属するものに単なる造作を加えて所有する。これら全て広大無辺なる大宇宙の一部を「私個人のもの」とすることが不自然であると何故気付かぬか。この宇宙間の何ものも所有の対象とはならないにもかかわらず、貨幣経済という幻想のシステムが所有という概念に拍車を掛ける。人間同士の間においてのみ、「お金」を支払うことで(たったそれだけのことで)、大宇宙の一部を「私のものである」と高らかに宣言するという幻想であると同時に驕り高ぶる姿である。
    原料採掘から加工へ、加工から販売へ、販売から消費へと物が動き、反対の流れに「お金」が動く。消費から販売へ、販売から加工へ、加工から原料採掘へ・・・では原料採掘からどこへお金が動くのか。大自然へ、または大宇宙へお金を支払うとでもいうのか。誰も何も払わないし、誰がそのようなクダラナイものを受け取るというのか。
    原料採掘に際しても、その場所を所有する段階で支払が発生しているが、土地の所有者は歴史を遡れば一番最初はタダでその土地を大自然に線引きして「私のもの」と勝手に宣言して奪ってきたのである。初発は原住民の縄張り争いに始まり、戦争のたびに地図が書き換えられてきた領土のように、国家間の線引き、所有もこれに同じである。

    (周囲を見渡して見ると、人間がいかに精巧にモノを造作しようとも、人間が無から創造したモノなどこの大宇宙間には何一つない。恐れ多くも一なる創造主の波動の具現化した物質を加工した単なる造作である。それを所有する不自然さと慢心に何故気付かぬか。宇宙一切、一なる創造主の律動である。
    これを理念として既に身に付け、宇宙の秩序で生かし生かされる優良惑星人の世界にどうして不自然な貨幣システムが必要であろうか。貨幣経済システムがいかなる優良惑星にも存在しない理由は、優良惑星人は現象界が相対界であり実在ではなく、一切が創造主の経綸下である現象界の事物を所有する不自然さを認識している事と、所有せずとも全ては既に充分に与えられているという絶対信頼と感謝にその原点があるからである。また、惑星人同士がその愛念に基づき互譲と奉仕に生きる社会に、物や行為の価値を天秤に掛けて損得を勘定する必要はなく、従って、互いに必要な時に必要な物や行為を過不足なく援助し合う惑星社会に所有などという我欲と我れ善しのシステムが必要であるはずもない。

     想像していただきたい。あなたは今夢を見ているとする。その夢の中であなたは何でも無から創造できるとする。そして夢の中には様々な住人がおり、それらが進化・向上するため、物質などのあらゆる実質的要素と完璧な法則までも創造した。全てはあなたが作り出した世界である。ふと見ると、あなたの世界の住人が「所有」という言葉を旗印に、騙し、奪い、争い、傷つけ合い、殺し合い、相互不信と孤独に戦々恐々として苦しみの幻想世界を勝手に作りだしている。なにやら「わー、わー」と喧(かまびす)しく個人やグループや国家単位で、際限のない所有合戦を繰り広げている。全てはあなたが創り出した世界なのに、下界では勝手に線引きや所有をして争いあい、苦しみに苦しみを上塗りして争い合う姿をあなたは見ている。この感覚を以って、現実世界を具(つぶさ)に観察すると、貨幣経済のみならず所有という「地球の常識」がいかに奇妙なものであるかがひしひしと感じられる。

     所有の幻想から覚醒することは優良惑星人類への第一歩であるといっても過言ではない。何故ならこの所有欲を捨てる覚醒は、所有即ち奪って、失わぬよう握り締めるのではなく、与え合い、生かし合う愛の想念波動を発せられるか否かに懸かっているからである。やはり「まず想念波動ありき」なのである。)

     シルバーバーチャル星は優良惑星への転換が、地球のように激しく起こったわけではなく、極めて緩やかなものであったため、優良惑星に移行したばかりの古代シルバーバーチャル星では貨幣経済に似たシステムが極めて短期間だが存在したことがあった。旧地球惑星で言う電子貨幣に似てはいるが、全く価値の異なるシステムが存在していた。シルバーバーチャル星共通の「バーチュー」という単位の「徳」を計測するシステムであった。
     単に発音が似ているだけだが、地球惑星の英語圏ではバーチューを「Virtue」とつづり、その意味は「徳、美徳、徳行、善行」(研究社 新英和中辞典)で意味まで似通っているのが面白い。
     正しくはシルバーバーチューと言ったらしいが、バーチューとはその行為をする者の「徳」、即ち人徳、霊位、霊性を計る単位で、「愛念と奉仕の尺度」とほぼ同義である。550バーチューとか1896バーチューなどと数える。日本語なら550徳、1896徳とでもいえよう。
     シルバーバーチャル星が貨幣システムのない本来の宇宙則に調和する社会を築くまでの短い間に存在したこのシステムは、言わば「徳の高さが貨幣に代わるもの」として機能していたのである。社会全体の価値が徳の高さを核に判断された。徳の高い者が社会の指導層となっていくのも必然であった。高徳は即ち存在全てに対する愛と感謝の想念波動の高さをいうである。
    指導層ほど人徳が高く、その姿勢は低く、不良惑星でよく見られる(露骨であれ、内心であれ)傲慢な姿勢の者は存在し得ないのである。この指導層が決まり行く経緯は、我田引水の欲にまみれた大衆の利害得失で選出されたり、イメージ操作により造られた立候補者像に対し人気投票をするがごとき博打(ばくち)的無責任さによって選出されるものではなく、皆の精神感応とその者達の高徳により自ずとその役割が決まるのである。指導層であるからといって不良惑星的概念の「エライ」人物という認識はない。ただただ愛と感謝と奉仕の心で己の「役割」を全(まっと)うするその想いだけである。
     右手と左手、足と頭、心臓と肺臓、爪と髪・・どれも大事な全体の構成要素であり、右手より左手がえらいとか、心臓より肺臓がエライとなどということはないのと同じである。それぞれがそれぞれの全体における役割をよく得心し、その使命を全うすることに全力を傾け、相互信頼の元、各々の役割を果たす惑星人同士、深い感謝の念を交換するのである。これ即ち交歓である。その原動力は、一なる創造主から一人一人に分かち与えられた大愛を実現するというその一念なのである。従って、優良惑星における奉仕は、自己犠牲の上に成り立つものでなく、ましてや地球惑星人類の下心や打算や慢心のある歪んだ「奉仕営業」ではないことは言うまでもない。
    (自己犠牲思念は自と他を分離するものである。ぐっと卑近な例に落として言えば、母が高熱に苦しむ子をみて「代わってやれるものなら代わってやりたい。」と思う気持ちは自己犠牲的思念である。代わってはならないのである。その者の苦しみはいかなる苦しみであれ、その者の学びの貴重な教材である。また、子の高熱は夫婦仲の悪い波動の具現化であることに気付き、夫婦共々反省し、現実的に夫婦協力してその子の看病をすることで、その仲の修復をするのが親の学びとなるのである。優良惑星には波動粗き、低き惑星人は存在しないため、悪波動よる病はない。優良惑星人の人体に関する科学は地球惑星人のそれに比して雲泥の差という程高度なものである。遺伝子と波動の相関も知り尽くしている。しかし、地球惑星では多種多様に病名をつけた数え切れぬ程の症状があるが、これらに関しては優良惑星人は全く疎(うと)いのである。病気になる原因は知っているが、そうならない想念を有しているため、地球惑星人が罹患するような個々の病気、症状には疎いのである。したがって優良惑星には病院など治療を目的とする施設は一切ない。地球惑星人始め、病苦はあって当たり前、長い人生病気にならないほうがおかしい、誰でも少しぐらいは病気するだろうとの観念を堅持した不良惑星人には想像だにできない世界である。病院のみならず、地球にある職業、施設、システムなどと比べるとその種類も数も極端に少ないのが優良惑星である。少ないほど自由なのである。地球では法律、政治、各種システム(貨幣経済もその一つ)とそれに伴う施設、職業と不良惑星ならではの事象がひしめき合っているが、これらの制約、規制から解き放たれた自由は現存地球人類では実現不可能である。解き放てば忽(たちま)ち戦争、強奪、殺人、弱者蹂躙などありとあらゆる悪行が罷(まか)り通り、巧妙な犯罪よりも寧ろ単純で暴力的な犯罪が激増するためである。それほど優良惑星人類が有する想念波動とは程遠い惑星人が多く生息するのが地球惑星である。しかし、いつまでも不良惑星のままではならない。地球の波動は刻々と上昇していく。業想念崩壊をもって、既存社会システムと「変わりたくない惑星人」の淘汰をせざるを得ない一大事はもう目前である。)

    さて、不良惑星においても家族内で自らの子供に何かを分け与える時、子供から「お金」を取り上げることは一般的にはなかろう。我が子を愛し育む想念あるが故である。吾が命に換えてもわが子を守る母性ほどの愛念を何故地球人類同士で分かち合えないのか。
    シリーズ第3回の「相対界」の記述の中で、「善悪を超越して正しく生きよ、悪想念を発してはならない」としたが、「相対的」悪を見て責め、咎める悪想念を発している限り、そこに許しも、赦しもない。一方で人を愛し、他方で人を憎む。大変難しいがこれを超越しない限り、万人に対する我が子に抱く程の惜しみない愛念の発動は程遠い。惑星人類が挙(こぞ)って、失敗しながらも少しずつこれを出来るようにしていく過程で、自然に貨幣のない社会が実現され、優良惑星人としての自己確立を果たしていくであろう。だが、残された時間は僅少である。
    これが出来なければ、地球波動の上昇に付いていけない蓄積された業想念は堪えきれずに崩壊し、激しい一大天譴により淘汰が始まってしまうのである。一大天譴とその後のアセンションにより貨幣経済のないことをその特徴の一つとする優良惑星への荒療治的切り替えとするしかないのである。

     (貨幣のない社会・・・来るべき新生地球惑星の姿がここにある。これらの書籍を強くお勧めする次第。)
    http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31567418

    本日これまで。

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    喫煙と肉食  「目覚め」れば簡単にヤメられる

    タバコも肉もやめられない・・・両者に共通する洗脳

     禁煙を難しくしているのは禁断症状なんかじゃない。禁断症状なんてあったとしてもわずか3日。禁煙を難しくしているのは、『タバコなしでどうやって喫茶店にいくの?どうやってコンパするの?どうやって仕事のストレスを紛らわすの?どうやって暇を潰すの?信号待ちのときは?』・・・『悲しい時は?』『嬉しい時は?』『怒れる時は?』『楽しい時は?』・・・・要するに『どうやって生きていくの?』という不安なのだ。そう、タバコなしでは生きていけないとう洗脳だ。自分はタバコを吸いながら自分の子供には吸っちゃダメだという矛盾。解っちゃいるけどやめられないのはこの「洗脳」のためだ。だが、勝手に洗脳されるわけじゃない。誰かが洗脳したのだ。何故吸い始めたのか?かっこよく吸っている大人、先輩、映画俳優のせい? 確かにそれもそうだが、口から煙を出している姿をカッコイイと思う背景・下地がなければ、周囲の大人であれ、先輩であれ、映画俳優であれ、鼻や口から煙を吐いている姿を見たら「アホちゃいますの?」と思うに違いない。煙を吐く姿を格好いいと思わせ続ける誰かがいる!・・・業界だ!年間何千億もの巨費を投じて宣伝する業界なのだ。

     そして洗脳された者は洗脳に気付かない・・・・これが洗脳。

     タバコを吸っていても100歳まで生きたという「どこのだれとも知らない老人の話」を持ち出して、タバコを吸っても健康な人は健康だよなどと言い、医学的統計データとしてハッキリしているタバコによる死亡者数、疾患者数、タバコのデメリットには目を瞑る。なぜだ?やめたいといいながらやめたくない自分がいる。やめたくない自分の正体とは、やめられないかも知れないミジメな自分を見たくないとか我慢しつづけなければならない苦しくミジメな自分を直視できないという不安や恐怖なのだ。そしてそんなミジメな自分より、いつかやめようと思いながら、タバコを吸いつづける自分を選択する。そして、無意識には「タバコは俺にとって必要なものなんだ。」と意識されずに、その人の顕在意識、潜在意識に確実に擦りこまれていく。(洗脳とは洗脳されたことが本人に認識できないことが多い。)

     肉食もこれと同じではないか?

     『たんぱく質は肉で摂る』『肉を食べなきゃ力が出ない』『肉を食べないと栄養が偏る』『バランスよく何でも食べなきゃいけない』『植物性タンパクだけじゃダメ』『肉を食べなきゃ何を食べるの?』・・・・このような≪迷信≫を覆す理知的かつ医学的データをいくら提供しようとも頑として受け付けない。替わりに返ってくるのは、苦し紛れの強弁かベジタリアンに対する攻撃的(かつ感情的)発言だけなのだ。洗脳とその上に助長された欲望の前に理性も医学も人道も太刀打ちできないのだ。「解るよ、よくわかる。」といいながら「でもね、俺は肉を食べるよ。」と付け加える。理由は簡単・・・不安と欲望だ。「肉を食べなきゃ・・・」と「食いたい!」、この2つなのだ。解っちゃいるけどやめられないのだ。そもそも本当に肉は旨いのか?生で味付けせずに食べたらどうだ?単に「タレ」が旨いだけじゃないのか?

     誰が洗脳したのか?これまたそれを生業とする業界だろう。その業界に洗脳された親が、先生が、知人が、マスコミが、栄養学者が次の世代を洗脳していく。こうして、地球社会では生まれて、離乳すると同時に、何らかの形で「死体」を食べさせられるようになっている。

     この洗脳ゆえに、「動物を扱った感動的映画」に感動し涙したその帰路、立ち寄った店で血の滴るステーキを頬張り、舌鼓を打っていても、そこに矛盾を感じない。その死体を転がした同じ舌が動物の感動秘話を熱く語り合うのだ。

     無知の栄養概念、錯覚の美味、洗脳のバランス論、演出された高級感、シズル感たっぷりのTVCMからレストランのメニューの写真、はたまた国際経済、政治まで絡んでうごめく各国業界。足し算引き算でしか人間の身体の仕組みをはかれないたかが現代栄養学がその後押しをする。

     業界の巨費を投じた、一見アカデミックにさえ見える謀略の前に、不学の大衆などイチコロなのだ。この洗脳から目を覚まさない限り、「解っちゃいるけど」はいつまでも続く事になる。「解っちゃいるけどやめられない」程度なら、目覚めればいつか「死体の分子分解処理機」としての人生から卒業できる可能性はあるが、中にはやめる気すらない者も少なからず存在している。

     そうした意味ではタバコのほうがまだやめやすいのかもしれない。「健康に悪い」というのは今では誰も疑わない事実だからだ。一方、肉食に関しては、相変わらず「健康のため少しは食べなければダメだ」と思い込んでいる者の数は、真実を知りこれを実践する者より圧倒的に多い。

     大事なのは目覚め、覚醒、悟りだ。悟りなどというと大袈裟に聞こえるが、悟りとは日常生活のそこかしこに転がっているものであろう。正確には「悟るチャンス」と言うべきか。悟りとは、なにも深山幽谷に篭もり、座禅を組み、時に滝に打たれて、心頭滅却・・・・など、特殊な人が特殊な場所で特殊な事を特殊な方法でやらねば得られないというものではない。

     霊性の向上こそが生命進化の目的で且つかように特殊な事をしなければ悟れないというなら、特殊な事など一切しない大方の人類は生きている意味などなくなってしまう。特殊な事が特殊な場所で特殊な方法でできるチャンスが与えられた特殊な人だけが悟ってよいなどというように宇宙が構成され、仕組まれているはずもない。

     悟りとは日常生活で、揉んで揉まれて喘ぐ中、視野を広く持ち、自ら得たものだけがその者の財産となりうる「気付き」以外の何ものでもない。タバコにしろ肉食にしろ、その弊害、その矛盾を知識として蓄えるのはたやすい事だが、それは気付きであろうか?知っただけのことであろう。

     感動的動物映画の後に、肉を頬張り笑顔で感動の余韻に浸り、その感動を熱く語る自分の姿、レストランの窓ガラスに映ったその自分の姿を見て、その矛盾に自ら気付く事。これは紛れも無い悟りなのだ。悟りには程度の差は勿論ある。まずは気付くことではないか。気づきの深さはその後に漆塗りのように重厚になっていくものだ。

     そして、悟るほどに課題は難しくなる。悟るほどに一見辛そうな人生を送る事もある。世間から距離をおかれることもある。孤高な人生である事が多いだろう。許せざるを許していかねばならぬこともあるだろう。これは深山幽谷で起こっている話ではない。これ全て日常生活のそこかしこで毎日のように起こっている事象なのだ。悟るチャンスは腐るほどあるではないか!

     深山幽谷に篭もって得られる特殊な能力は悟るに絶対必要な要素ではない。それらは霊性に比例しない。むしろ特殊能力を悟りと勘違いし、おごり高ぶり天狗になって、その霊性を却って卑しめている者も散見される。そして局の視聴率稼ぎに利用される「超能力者」「霊能者」。麗しい霊性からもたらされる能力もあれば、霊性が低くとも「背後」の邪な力に通じた能力もある。世に奇跡を起こして大衆の瞠目を集める者の背後は往々にして霊性低く邪だ。霊性の高い者の背後は高級霊に属する存在で、その語る内容は大衆を気づきへと導く厳しくも愛念のあるものだ。決して欲を煽る甘言ではない。願い事もかなえないし、ご利益も与えない。大伽藍や大聖堂を建立しろともいわない。見返りを求めない。そして、静かに気づきへと導くものだ。

     そして、悟るほどに人はその姿勢が低くなる。

     『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』

    タバコ、肉食・・共通するのは洗脳と洗脳により肥大した欲望に理念が眠る乾いた日々

    禁煙、ベジタリアン・・共通するのは気付きと霊性の向上する喜びが静かに沸き起こる日々【「人間本来の姿」・・口にタバコを咥えて生まれてくる人間はいない。他の動物を襲って仕留めるための鋭い爪や牙の生えた人間はいない。】

    そんな構図が見える。

     シルバーバーチャンは今日も日常生活を営む。

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    猫と「話す」?精神感応する猫・・美助(ビスケ)

    シルバーバーチャンの別宅には猫が3匹いる。

    DSC01809 (写真はシルバーバーチャンの猫のうち、会話できる「美助」(ビスケ)。

    (今は綺麗な猫になったが、拾って保護した時はグチュグチュの目ヤニと猫風邪で鼻もダラダラ。耳の中はダニとその汚物で真っ黒け。毛玉だらけの子猫だった。よく頑張って生きていたね。)

    みんな拾った猫だ。(累計5匹だが2匹は既に命を全うした。)

    (命に値段をつけて売り買いするのは嫌だなぁ。だから基本的にペットショップで動物を買わない。マンションの庭にいるコペルニクス(亀)は何百個という虫かごに1匹ずつ入れられて売られてたいた中から、何故か衝動買いしてしまった。でも、自分が30円とか値札をつけられて売られたら嫌だな。いくらでも嫌だ。A氏からB氏にあなたが例えば40億円で売られたとしても、あなたには1円も入らないし。そしてあなたはB氏の支配下に・・・。)

     そのうち1匹に妙な力があるのが解ったのは、1年半前。それが美助(上の写真)。

     シルバーバーチャンが庭に、後ろ向きに(後ずさりしながら)水遣りをしていると、突然脳裏に「危ない!」と誰かが言った。危ないとう言葉ではないが「ハッ」とした想い、「ヒヤッ」っとした想いというのか・・何か危ない目に遭った時、誰でもハッするあの瞬間の気持ち(そこに言語は必要ない)・・・それが脳裏にパッと走った。シルバーバーチャンは瞬間的に上げた脚を止めたまま振り返ると、身構えた美助がそこにいた。「あぶねッ。踏むところだった。」 それだけならただの偶然なのだが、脳裏に浮かんだあの「ハッ」とした思いはなんだったんだ?と疑問が残った。

     また、ある日、出かけようと玄関で靴を履いていると、猫の飲み水(100円ショップで買った洗面器)に虫が沈んでいる映像が一瞬脳裏に浮かんだ。キモっと思いながら、何となく気になって、リビングに戻り、洗面器を覗いても何もない。「????」念のため洗面器にもっと近づいて覗き込むと、手前側の縁の部分に隠れて「ヤスデ」(ムカデみたいな節足動物)が腹を上にして沈んでいた。落っこちたが脱出できずに溺れてしまったのだろう。

     水を替えるやいなや美助が近寄ってきて水を飲んでいた。美助、教えてくれたのはやっぱりお前か!

     また、ある日、他の2匹の姿は見えるが、美助の姿が視野にない。外に出て行って車にはねられでもしたらどうしようかと思うとちゃんと返事をする。別の部屋にいた。姿が見えず「どこだ?」とおもうと美助が返事をするのは日常茶飯事のようにある。あまり鳴かないおとなしいヤツなのに、こういう時はちゃんと?鳴く。

     しきりに前足を舐めるしぐさをしている日があったので、美助を抱きかかえて「どうした?」と思うと、ストーブの上に乗って前足を火傷したと映像で「説明」する。普段は石油ファンヒーターを使用していて、あまり使わない開放型のストーブだが、小豆を煮ながら暖をとった。(昔の石油ストーブは上に何か乗せて、煮たり沸かしたりできるからいい。)そのストーブの映像だ。映像はストーブに飛び乗る美助の視点で一瞬浮かんだ。それで充分。シルバーバーチャンは全てを理解した。

     映像や感情、イメージなので日本語も英語も必要ない。言語によらないコミュニケーション。他の2匹でも試みたが、こうしたやり取りは何故か出来ない。

     美助よ、お前は一体何物だ?

     いつか、「ネギと話した」シルバーバーチャンの話も掲載しよう。

    ********こんな人や動物がこれからどんどん増えるんだろうなぁ。********

    ********「常識では考えられない出来事、unbelievable。・・・あなたに起こるのは明日かも知れない」(Takeshi Kitano )********

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    肉食と戦争・・・懐かしい書籍発見から派生して思う

     シルバーバーチャンの書庫(八畳の部屋一面本棚で、学生時代からの書籍は蔵書に値しない読み捨て雑誌以外は全て保存してある)の整理をしていた。

     よく「当時流行っていた音楽を聴くと青春時代を思い出す」などというが、シルバーバーチャンは当時のポップスよりも書籍が時代の記憶とリンクしていることが多い。

     8月15日(日)、1980年代の書棚を整理していると古くて新しい書籍が出てきた。ずいぶん手を触れていなかったらしく、うっすらとホコリが積もっていた。 紙のカバーを二重にもかけ、書籍そのもののカバーにはなんとラミネート加工が施されていた。記憶にないが汚れても拭けばきれいになると考えて加工したのだろう。大事にしていた様子がわかる。

     見ると『ニューサイエンティスト群像』とある。勁草書房から1987年3月に発刊されている。1987年とは当たり前だが昭和62年だ。平成17年の今、昭和という響きがやけに色褪せて聞こえる。まだ、17年しか経過していないのに、遠い遠い昔のようだ。(まだベルリンの壁で東ドイツと西ドイツと2つ国家があり、ソ連も存在し、ミャンマーもまだビルマと呼ばれていた時代というともう「歴史」級の響きだな。)

     同書には「百匹目のサル」、「形態形成場理論」や「タオ自然学」などルパートシェルドレイク、フリッチョフカプラなど懐かしい面々が百花繚乱の如くその論説を展開していた。今でこそ、これらのキーワードは頻繁に書籍やネットの記述に登場するようになってきたが、当時は間違いなくヒッピーの生き残り、焼き直しのニューエージムーブメントやマッドサイエンスの類と見られ、対峙する立場をとる者も多かった。対峙するならまだしも関心すら抱かれなかったといったほうがよいかもしれない。

     まだ某大Sophomoreの学生だったシルバーバーチャンは同書を手にして、ものすごく興奮した事を思い出した。「凄い時代がやってくるぞ」と。だが、シルバーバーチャンが期待したような時代はすぐにはやってこなかった。いや、今尚、時代はやっとその入口にたどり着いたぐらいのところらしい。そして新しモノ好きがこうした理論をオモチャのように扱い、囃子立てて、乱用する。

     「百匹目のサル」などまさにその代表例だ。いつの時代もそうだが、パラダイムシフトが起こる時代には、玉石混淆、雨後の竹の子のように、そして圧倒的に邪な存在の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)となった「学識経験者」「覚者」「○×大師」「自称聖者」が闊歩する。

     どの面々も「我、悟れり」と涼しい顔をしてモノ垂れ給う。我こそは生命の実相悟れりというなら、まずそれを実生活に体現して見られい。生活の根源的行為である食を正されよ。死体をむさぼる莫(なか)れ。

     いかに多くの知識を脳天に詰め込み、口に愛だの平和だのと唱えても、人類皆非肉食にならざれば恒久平和の世は来ようはずもない。生命の座から視すれば、動物等は我等が同胞に他ならない。その同胞を喰らうはいかなる由(よし)ありや。

     そこにあるは同胞の生命を蹂躙(じゅうりん*踏みにじること)してでも己の嗜好的食欲を満たしたいとの傲慢にして賤しき想いではないか。恐怖、憤怒(ふんぬ)、悲哀の中にて血潮を噴き出し、虫の息なるもハラワタを引きずり出されながら、無念の中に「消費」された同胞の命を慮(おもんばか)ることができぬ者が如何(いか)にして、如何なる時も紛争、闘争、戦争を回避しうる意志を堅持できると申すか。

     抑えがたき欲望のためには物言えぬ同胞の命を蹂躙する想念を宿したる者、その心根は我田引水なるが故に、大きくは国益、小さくは個人の利得を左右するに臨みし時、いとも簡単に相手を蹂躙してでも己の欲求を通さむとする衝動が働くものにあらずや。その想念の在り方が紛争、闘争、戦争へと突き進む下地となるなり。人と動物を別なりと分けたる法律、条令の類によりて、人類同胞に対しては「捕まっては元も子もなし」と思うが故に人類同胞の生命蹂躙に及ぶ事は日常茶飯事には起こらざるなり。この法による取り締まりなくとも、人類同胞同士の殺戮日常茶飯事には起こらざるなりと断言為し得ようか。「罰っせらるることなし」と思うや否や怨恨、強欲による殺戮まかり通るなり。なれど動物にはこの法適用されぬが故に、食品としてまた虐待対象として、また実験材料として日々動物同胞の命を蹂躙為しあるなり。またせいぜい道徳程度を拠りどころとする不安定にして危うき善心にて人類同胞に対する犯罪を踏みとどまり、その発生は全体数に比して僅少なり。なれどひとたびこの対象が動物同胞となると、この道徳も効力を失う事多きなり。動物への愛情を謳う道徳を説く傍らで動物同胞の肉片、即ち死体の一部を調理するの矛盾を犯すも、これに気付かざるなり。これ理念眠りたる証左なり。理念眠りたる者、恒久平和を実現する力を持たざるなり。

     同胞の死体をむさぼる肉食為す者の大部分は「動物」と「肉」の繋がりを連想せざる無頓着なるもの多きなり。連想せざるは「肉は食品なり」との洗脳の故にてもあり。仮令(たとい)頭にては理解為すも、己の嗜好的欲望の充足を優先為す頑迷固陋(がんめいころう)の霊性低き者多きなり。地球人類が肉食を放擲(ほうてき)せずして、戦争、紛争、闘争のなくなる日を望むは、冷水にその身を置きて温かきを乞い願うが如しといわざるべからず。肉食の放擲なくば戦争の絶えうること無しとは、大袈裟にても、喩え話(たとえばなし)にてもなく、ましてや御伽噺(おとぎばなし)にても非(あら)ざるなり。

     ベジタリアンの同胞諸氏よ。同胞諸氏におかれては、斯(か)くの如き無知蒙昧(もうまい)なる、しかしその本質は瑠璃(るり)の如き輝きを持ちながら、その理念曇りたる肉食人類同胞に、肉食の本質的非を説きて、一人でも多く市井の覚者を輩出する一助とならむことを願うものなり。シルバーバーチも日月神示下ろせし丑寅の金神も肉食の放擲を人類に要求為しあるが、その理由の要諦はここにあると覚るべし。 このシルバーバーチャンも人類同胞が肉食放擲を欣求(ごんぐ*よろこんで求めること)為すその日を一日千秋の想いにて待ち望むものなり。

     (・・・・とうとう文語になってしまった。)

     本日、これまで。

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    「死について」考える or 「死を」考える。

     人生は百人百様の課題を抱え、使命を帯びて、三次元地球地上に肉体という道具(もしくは乗り物)を与えられて出てくる。

     この惑星人(地球人)の場合、課題が何なのかよく解らないまま、『生存してはいるが、活きてはいない』状態でルーティンワークのように日々無為無策に過ごしているようだ。

     そして、我と欲によって築き上げられた社会システムに組み込まれ、好む好まざるとに関わらず『生存競争』に明け暮れる。

     「活きて」いないのに生きて(生存して)どうする?「活きて」もいない生存のために他を蹴落とし、傷つけ、奪い、貶めながら競争をしてどうする?

     肉体という道具で何をするかが課題・使命ではないか?課題も使命も解らず、道具ばかりを磨いてどうするのか?道具ばかりをケアしてどうするのか?毎日確実に老朽化していくその道具の使い方も、使う目的も解らず、求めもせずに、漫然と磨いてどうするのか?いずれ朽ち果てる「所詮道具」に執着してどうするのか?

     いずれやって来る「廃棄処分」の時。その道具を何にどう使って来たのか?生存させていただけか?保管していただけか?燃料(メシ)を補給していただけか?

     どの道具も、基本OSをインストールために小学校、中学校に行く。ここから先は、道具によっては、バージョンアップのために高校、専門、専修に行く場合もあるし、そうでない場合もある。次の道具を生み出すために増殖能力を発揮する道具もある。そうでない場合もある。大学、院とバグも抱えながら更にインストールをしていく道具もあればそうでない場合もある。

     各道具各様だが、最終的に例外なく迎える「廃棄処分」の時。使っても使わなくても、活かしても活かさなくても最終的に必ず迎える「廃棄処分」の時。願っても願わずとも迎える「廃棄処分」の時。無駄にした道具か?それとも使い切った道具か?

     この惑星人は道具を生存させ、磨き、飾る術(すべ)を知っている。生存競争をその規模に応じて闘う術を知っている。争う術を知っている。奪う術を知っている。欲望を満たす術も知っている。我を張る術も知っている。現実的には進学、就職、結婚、蓄財、老後の備え・・・と。人生の様々なシーンで生存競争に打ち勝つため、血眼になって闘うマシーン

     それほど生存競争に鎬(しのぎ)を削るのに、誰もが例外なく、確実に、絶対迎える死に対して、鎬を削るほど真剣に考えるようとしないのか?なぜ真摯に向き合おうとしないのか?

     今日の朝起きて『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って今日を生きる。

     明日の朝起きて『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って明日を生きる。

     明後日になれば『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って明後日を生きる・・。

     「明日」生存している根拠はどこにも無いのに、「明日は大丈夫」と思っていないか?

     『一日一生』・・今日でお終い。今日が全てと思って生きてない。

     『一日一生』を思う時、人は「生きて(生存して)」いる状態から「活きて」いる状態へと脱皮する。道具である「生きた肉体」と本体である「活きた精神」が連動する瞬間だ。

     シルバーバーチャンにも18、19のワカゾーの時があった。特に若造は「死について」考えはするが「死を」考えてはいない。『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』だ。大方のワカゾーにとって、『一日一生』ではないのだ。

     阪神大震災、スマトラ・・・被災者は天災に呑み込まれる10秒前ですら、『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思っていたに違いない。多くの惑星人がそうであるように・・。が、「明日の予定はあっても、明日など存在しない」「明日という概念は存在しても、存在しているのは今この瞬間だけ」なのだ。反対側の「昨日・過去」というものですら存在した物的証拠や記憶があるだけで、その過去自体はもう存在しない。過去の物的証拠や記憶が存在しているのは今この瞬間なのだ。過去に存在した物的証拠が存在しているのは「今」なのだ。過去があったという記憶が頭脳に残っているのは「今」なのだ。常に「今」、「今」、「今」、過去の記憶も「今」その頭脳に、過去の物も「今」そこに在り、未来の希望も予測も夢も「今」その頭脳に存在するのだ。

     生き甲斐という言葉がある。そして「今」即ち『一日一生』をそこに重ねると、見えてくるキーワードがある。

     それは「死に甲斐」だろう。何のためなら道具(肉体)を投げ打つことができるか?肉体は「生物」であるけれども、「生命」ではない。生物は所詮生命の乗り物だ。道具なのだ。

     何のためにならたとえ死んでもよいと思えるか?その「死に甲斐」のために生きている状態を「活きている」という。肉体に執着しない、志を優先した、精神に重きを置いて生きる状態を「活きる」という。如何に死ぬかは如何に活きるかを問うものに他ならない。それは明日ではなく、今日(今)の課題なのだ。一日一生。「死に甲斐」は究極の生き甲斐なのだ。即ち「活き甲斐」だ。

     ***「一日一生」は生き急ぐことではない。今日が最後だからと焦燥感に駆られて、落ち着き無く、イライラと精神の沈静を失う事ではない。今日死んでもよいと思える死に甲斐があればそれでよい。死に甲斐は達成した途端に色褪(あ)せる生き甲斐ではないのだから。『朝に悟れば、ゆうべに死すとも可なり』と誰かが言っていた。***

     怒り、憎しみ、羨望、不満、拘り(こだわり)からの解放。そのために必要な気付きと許し。その結果たどり着く悟りと感謝。人生が思い通りにならないのはこのプロセスを経て学ぶためだ。思い通りになってしまう人生では、思い通りにならない事、思い通りにならない人への許しも学べない。思い通りにならないことに、いつまでも執着する拘りとその愚かさからも解放されない。それらに必要なことは気付きだ。気付くと、許しが生まれ、比較して他を羨むことが愚かしいと気付くから羨まなくなり、気付きのために「思い通りにならない事、人が用意されている」と気付くから不満、不平もなくなる。比較的変化が鈍重に設定された三次元物質界では、不満、不平の現象が劇的に変わることは少なくても、その事象を受止める精神は自由度が高く、いかようにも変容する。即ち許しであり、羨まないことであり、不満を言わないこと(言う気にならないこと)だ。その先に都合の悪いこと、思い通りにならないことへの感謝がある。こういう成長する人格者は往々にして皆謙虚だ。思い上がりがない。これが究極の悟りなのだろう。ここまで来ればもはや道具(肉体)のあり方も環境も違ってくる。もはやこの惑星に生まれる必要はない。より高等なレッスンを展開している別の惑星にある「教室」に新たな「乗り物」で降りればよい。人はこれを学ぶ為に、思い通りにならない人生を生きていく。「活きながら」生きていくのだ。霊主体従とも言えるだろう。

     この気づきも(その結果である許しも感謝も)、気付くのは己であり、相手や他人ではない。手にできるのは自ら気付いた分だけだ。変われるのは己であり、相手や他人が己の替わりに変わるのではない。また相手や他人を変えようとするものではない。それをすると「変えるべし」と思う対象は次から次へと際限なく現れてくるだろう。己が気付き、己が変わるのだ。どう変わるのだ?「三次元に出てくる前に抱えてきた課題」に沿って変わるのだ。自分にとって都合の悪い事(まはた人)、思い通りにならない事(まはた人)となって課題は具現化する。受け取る己が未熟な部分が怒り、羨み、不平不満となって心に映る。同じ事象に出くわして、人それぞれ反応が様々であるのは、心の発達度合いが様々だからだ。ある事象が、あるの者には高いハードルであるが故に激しく反応し苦しむが、その同じ事象が、別のある者には取るに足りない許しの対象であったりする。同じ事象が心、人格、器の発達の程度により、その者の課題となるか課題とならないかが自ずと決まる。即ちその者が困難、怒り、羨み、怒りなど総じて思い通りにならないと感じたら、それこそがその者の程度に合わせた課題ということになろう。

     よく「私の人生の課題は何でしょうか?何を課題にして私は生まれてきたのでしょうか?」と答えを求める者がいる。

     答えは、『あなたの課題はあなたが思い通りにならないと思う事、腹の立つ事、羨む事、イライラする事、・・・等々、これら全てあなたの課題です。それらをあなたがどう受止めるかはあなたの魂の成長に応じて変幻自在に変わるものです。卑近な例では、「三年前の自分なら許せなかった事が今では許せる。同じ事象なのに、(少し老化したけど)同じ肉体なのに、同じパターンなのに・・・今は許せる」ということがあります。これが課題をクリアしているということです。職業や同僚や社会的に置かれた立場、生まれてきた時代や取り巻く家族やその構成は「条件」であって、「課題」ではありません。どんな職業であれ、どんな立場であれ、どんな時代であれ、どんな家族であれ・・・・それらは皆「条件」です。従ってあなたの肉体も「条件」の一つに過ぎません。「課題」をこなす上でのステージです。与えられたこれら一切合財の「条件」の中にあなたにぴったりの、あなただけの課題が散りばめられているのです。三年前は許せなかった事を今は許せるあなたに今後同じ事象が起こってもあなたの心はもう動揺しません。何故ならそれはもうあなたの課題ではなくなっているからです。苦しかったでしょう。でも、よくここまで一人で頑張りましたね。」・・・これが答えだ。

     オカルトチック、ドラマティック、メルヘンチック、場合によってはヲタクチックな回答を求めている向きには物足りない答えだろう。が、真実は、沈思黙考し、内省すればすぐ手の届くところにあるべきなのだ。一日を振り返り、何度怒ったか?その度合いは?一点の曇りなく穏やかに暮らせたと胸を張れるか?怒りも羨みも憎しみも呪いも不満も不平も焦燥感もいささかもなかったと言えるか?言えない限り課題は続くのだ。次々にクリアして、クリアして、またクリアして、課題のレベルはどんどん上がっていく。すると小悟の者には課題ではなくとも、大悟の者であるからこそ課題となりうるような実に次元の高い課題ということも出てくる。『何故ならそれはもうあなたの課題ではなくなっているからです。』とは反対に『それは次元が高すぎてあなたにはまだ課題になりません』ということもあるということだ。が、それをいちいち自分で判断する必要は無い。判断などせずとも、『即ちその者が困難、怒り、羨み、怒りなど総じて思い通りにならないと感じたら、それこそがその者の程度に合わせた課題ということになろう。』と先に言った通りだ。

     人生はこの繰り返ししかない。この些細な日常の課題を見逃すと、「道具」「乗り物」を利用できず、単に維持するだけの人生に陥る。課題に気付かない人生は、進化、成長の喜びから遠ざかるため退屈だ。退屈だから刺激を求めるようになる。飽くなき物質的刺激を・・・。体主霊従パワー炸裂の人生。

     体主霊従は不満、不平、憎しみ、羨み、イラだち、そして怒り、地に足のつかない浮遊した迷いの人生。『色々あったけど過ぎ去ってみれば、ただの思い出。学び、気付きを置き去りにしてしまった・・・。』と最後に思うのが関の山。

     霊主体従は己の死に甲斐に焦点を当て、日常の些細な事においてすら、思い通りにならない人生だからこそ、つまづき、そして気付きを重ねて、日々成長する人生。一日一生なのだから、昨日の自分と今日の自分と明日の自分は着実に異なっており、静かに成長していく。

     体主霊従と霊主体従の人生を歩む二者の開きは、5年、10年で大開きに開いていく。片や肉体を本体として保身に努めた者、片や肉体を道具として精神を進化させていく者。

     進化、進歩の階段を上りさえしていれば、どこで道具、乗り物を換えてもいいのだ。それが肉体の死だ。魂は進化、進歩の階段を上りつづけているのだから。ただし、いつ乗り物を換えるかという判断は自分でしてはならない。生かされている以上、課題がある証拠なのだから、そのステージに自分で勝手に幕を引いてはならないのだ。 

    ***「肉体などという不自由なシロモノを持たない偉大な大愛」(これを仮に神と呼んでも可)からすれば、肉体の死は当然死ではなく、悲しみの対象でもないのだ。「大愛」にとって死とはあるコンピュータに保存されていたデータをより完全へと近づけてやる加工をするため、別のコンピュータに「移動」させる程度の作業なのだ。目的はデータを成長させることにある。そのために次はどの時代の、どのOS上でどんなアプリケーションを駆使して、データを成長させるかが最大の関心事なのだ。***

     学ぶ必要もないのにいつまでも肉体に乗っている必要はない。しかし、それを判断するのは自己ではない。「お迎え」が来ないなら、まだ学ばなければならない事があるのだろう。また、その乗り物でよく学んだため、次の乗り物が必要となるなど、このステージでは学ばせようがなく、別の学びのステージが必要なら、「道具」を「乗り物を」替える事になる。何れにせよ、生きているのではなく、生かされているのだ。そして生かされているという事実を活かすかどうかは己次第ということになる。ステージの幕は自己の判断で降ろすのではなく、時が来れば降りるものなのだ。

    ***天災に巻き込まれようが、事故に巻き込まれようが、病死しようが、老衰死しようがいわゆる「お迎え」が来るまで勝手に乗り物を降りてはならない。気付き、学び、得たものが自分の「データ」に記録され、より完全なものへと向かって永遠の旅をする魂にとって、データの記録を途中で放棄するのは大罪だ。永遠の進化と至福へ向かうために肉体も、世界も、時間軸も空間も存在する。これだけ大掛かりな「舞台装置」で、気づきと進化のステージを用意してあるのに、そして、思い通りにならない事象を通じてしか気付き得ない学びをデータ記録する必要がまだまだあるから生かされているのに、途中で乗り物を降りるのは大罪中の大罪である。自殺は大きな罪をつくることになるのだ。他を殺戮するのも進化の機会を奪うとう意味で同罪だ。***

     その道具、乗り物に乗って学ぶ必要がなくなったのだから、道具、乗り物は廃棄処分される。死とは人間の都合や我や欲でコントロールするものではないことが解る。体主霊従の者にとって死とはその乗り物を降りること、即ち全ての終わりを意味し、悲しみと、絶望と恐怖のクライマックスだろうが、霊主体従の者にとって死とは「その道具」を使うことをやめ、「その乗り物」に乗るのをやめただけの事なのだ。次に用意される「道具」はどんな使い勝手だろうか?次に用意される「乗り物」はどんな条件だろうか?どんな性能だろうか?その道具で何を創造しようか?その乗り物に乗って何を学ぼうか?・・・躍動する進化の道程なのだ。(いずれ乗り物に乗らずとも学ぶ方法も知ることになるのだろう。)

    本日、これまで。

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    美助(ビスケ)入院・・感応で発見。手遅れにならず良かった良かった。。。

     8月25日の朝、ゲロゲロ吐いているので、いつもの毛玉吐きかとおもって気にしなかったら、何か訴えてくる。美助は特殊能力を持っているのだ。

     どうやら膀胱が苦しく、腎臓に負担がかかっているらしいのだ。仰向けにして膀胱のあたりを抑えてみるが脂肪もジャマして素人にはわからない。でも美助はそう「訴えて」くる。

     鼻もカラカラに乾いて、何となく身体に力が入らない様子でぐったりしているし、シルバーバーチャンも感応して体がダルく、背中を捻ると腎臓のあたりが痛い。

     「間違いない!尿管つまってるな、こりゃ。」と思うや否やすぐ獣医さんに緊急連絡。

     先生「スグキテクラッサーイ。」(なんでアメリカ人やねん!)

     15分後、すぐに膀胱に注射針を刺して、出口を失ったオシッコを吸引。注射器には血の混じった尿が出るわ出るわ。取りあえず圧迫を取り除いた。続いてチンチンにカテーテルを挿入して(痛そー!!でも、麻酔かけてるから・・。)、3、4日はこの状態で入院。

     血液が正常に戻り、尿が酸性になるまで、食餌療法と薬物療法で治療する。【場合によっては、カテーテルを入れたまま、仮退院して様子を見る。オムツで過ごすことになるな。猫のオシメを換えるのは生まれてはじめての経験になりそうだ。】

     猫の尿は酸性が正常。アルカリに傾くと結晶(砂粒:サリュウ)ができて、特に尿管が極端に細いオス猫は結晶が詰まりやすい。詰まると膀胱がパンパンになり、膀胱の上流にあたる腎臓に極端に負荷がかかってネフロン(おしっこを作る働きをする腎臓の最小単位)が破壊される。一度壊れると戻らない。だから普通はネフロンの数は一生かかっても全体の3割程度で、残りの7割は使わない。しかし、こういうことになると一発で大量に壊れまくる。つまり急性腎不全になるわけだね。このヤマを超えても残ったネフロンが少ないと慢性腎不全になる可能性もあり、オシッコをろ過しきれないので、血液も汚れて次第に弱って死亡する。人間でも同じ事。こうなると人工透析するしか生きる道はない。)

    慢性腎不全

     今は入院中の美助・・・。ビスケよ、離れていても美助の様子はシルバーバーチャンに何となく伝わるぞ。今のところ大丈夫みたいだな。胃が荒れて気持ち悪い。口の中も気持ち悪い、舌が熱いというか・・渇いた感じだ。でも、身体はそんなに苦しくない。慣れない環境は少し緊張する。その映像(男性)は先生の助手だよ。(ビスケは助手さんに興味を持っているらしい。シルバーバーチャンの脳裏に頻繁にビスケの視点で見た映像が、色がハッキリしないがイメージとしてチラチラ浮かんでくる。)腰のあたりがモゾモゾする(何故かは不明)。

    早く元気になってくれ!すぐ迎えに行くからな。

    bisuke  拾ったときは酷い状態だったけど、捨て猫にしては「高そう」なビスケ。写真には写ってないけど、しっぽは毛でフサフサ。太いしっぽに見える。

    きっと雑種だと思うが、長毛系のなんとかって猫との雑種だと思う。

    『こんな感じの猫の種類、誰か知ってますか?』

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    美助(ビスケ)退院の予感???

     昨日の夜から頻繁に美助の念(?)が飛んできている。早く外に出たいらしい。

     身体の調子はよさそうだ。病院からはまだ連絡が無いが感応によると調子は上向きで、腎不全もなさそうだ。

     ただ、シルバーバーチャンは首が重く感じる。美助の調子がよくないのかシルバーバーチャン自身が調子悪いのかわからない。首が重く、やたらと深呼吸をしたい気になる。

     さっき精神を集中して感応を始めてからなのできっと美助の不調を拾っているんだと思う。美助もまだ本調子ではなさそうだ。

     美助は元気になるにつれ、知らない環境に対する緊張感が今ごろ高まってきているようだ。落ち着かず、緊張した感じが伝わってくる。

     早く退院してこ~い!

    DSC02133入院直前・ぐったりした美助(ビスケ)

    DSC02105それを食器棚の上で見守る豆蔵(マメゾウ)

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    美助明日退院決定 & 人が病気になる仕組み・・ストレスと脳幹

    本日8月30日、午後1時43分、美助が尿路結石で入院している動物病院から連絡があった。

    「ビスケちゃん、今日退院できますが、夕方6時半以降お迎えに来れますか?」と。

     聞くと、昨日の感応どおりの状態だった。昨夜の段階で、カテーテルを外す事は可能だったが、尿に潜血があるため、もう一日様子を見て、本日カテーテルを外す運びとなったとも。

     尿、血液ともに成分が、また腎臓の値もほぼ正常化したため、まず大丈夫だとの判断に加え、精神安定剤を投与しているものの、緊張状態にある美助を早く元の環境に戻した方が総体的に良い結果となるとの先生の判断だ。猫は犬よりも精神状態がより強く体調に影響するという。犬も猫も人間も精神的な動物なのだ。喜び、怒り、恐怖、緊張を感じることに変わりない。「感情の座」と呼ばれる大脳辺縁系は人間同様犬も猫も猿も持っている。そのうえに大脳新皮質が極めて発達した人間は、同じ怒りでも正義の怒りや損得の怒り、今現在感じる恐怖の他に将来を予測した恐怖、緊張、心配、打算など、「今」以外を思わない犬や猫などの動物と異なり、過去、未来にまで思いを馳せる。そして、現在と過去と未来に対する思考内容を大脳新皮質から大脳辺縁系に連動させ、「時空を超えた」様々な感情を作り出す。大脳新皮質で考えた結果を大脳辺縁系に連動させ様々な感情を作り出す。

     人間は、もうそこにはない過去に対して思い出したように怒り、恨み、まだそこにはない未来に対して心配し、恐怖したりもする。高度に進化したと同時に、邪心も生み出してしまったようだ。

     大脳新皮質・・・「知性の座」  人間になって大幅に進化させたまさに知恵をつかさどる部分

     大脳辺縁系・・・「感情の座」  大脳新皮質より下の古皮質、間脳、中脳など犬・猫にもある感情をつかさどる部分

     脳幹・・・・・・・・・「生命の座」  生命維持をつかさどる部分。ここをやられると自立呼吸も出来ず、心停止する。脳に障害を受けても脳幹だけがいきていると、自ら呼吸もするし、心臓も鼓動しつづけるため、植物状態となる。(必殺仕事人がカンザシとかで刺すのはここの延髄という所。)

      邪心は無邪気と対極を為し、往々にして悪いストレスを伴う。大脳新皮質で感じたストレスは大脳辺縁系に瞬時に伝わり感情を惹起し、脳幹にも、意識できないが、影響を与える事になる。松果体や視床下部にもストレスは影響し、ホルモンバランスや交感神経、副交感神経のバランスを崩すなど自律神経失調を招く。不眠、肩こり、眼精疲労、虚脱感など不定愁訴にはじまり、副次的に皮膚、髪をはじめ、循環器、呼吸器などあらゆる臓器に免疫力低下を筆頭に何らかの変異・変化が現れる。細胞レベルでこれらの変化に対応できなくなった時が症状として現れ「病気」と診断されるのだ。

     現代医学では症状として現れなければ病気と診断できないが、病気は大脳新皮質で「思う」時すでにその種が蒔かれる。大脳辺縁系でどういう感情処理をするかで、その後の様子が異なってくる。怒りとして反応するのか、気付いて感謝として反応するかで、その後、脳幹に及ぼす影響の良し悪しが決まる。つまり、どういう考え方で物事を捉えるか、受止めるかが最終的に健康を決定付けるという事になる。大脳新皮質を発達させた人間特有の病気惹起のプロセスだ。大脳新皮質の発達していない動物達は外界の悪いストレスを考え方でコントロールする事が出来ない。大脳辺縁系で外界のストレスを直接感情処理する。その後の病気のプロセスは人間と同じだ。言い換えると人間は大脳新皮質、即ち知性の座でどういう考え方、どういう捉え方、どういう自己教育をするかで大概の病気をコントロールする特権も持っていると言えるのだ。

     「病は気から」は本当なのだ。症状が現れた箇所をもぐらたたきのように治す対症療法ではなく、意識の持ち方で病気は癌でさえも治ることを現代医学はそろそろ認めていかなければならなくなるだろう。

     シルバーバーチャンの考え方と同じ方向性で、治病を実践する病院もある。その病院の院長先生の著作の一部を紹介しよう。

    意識を変えれば病気の波動が消える

    意識が病気を治す

     単に大脳新皮質から脳幹に向かってあたかも浸潤していくかのようなストレスとその影響で崩れるホルモンバランスや自律神経と、その後の身体の変調・病変のみならず、「波動」にまで踏み込んだ医師:野島政男先生の著作

     シルバーバーチャンには当たり前の世界観でも、唯物思想をその底流とする西洋医学と更にその延長にある現代医学の世界で、野島医師のような思考回路は異端どころか危険視、白眼視の対象となるだろう。確かに野島医師の『宙エネルギー』などという表現は、同じキーワードを乱用、誤用するいかがわしくインチキな輩(やから)がゴロゴロしている真の精神文明の黎明期・夜明け直前の世界だけに胡散臭く眉唾に聞こえるが、そうした表現はさておき、一読し「研究」する価値の大いにある著作だ。

    ・・・・・さあ、美助(ビスケ)を迎えに行くか!(ヨッコラショっと)

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    美助退院&『肉食愚鈍三段活用』

     昨夜7時ごろ、美助が無事退院した。

     ストルバイトなどの尿路結石というより、膀胱炎により内膜が剥がれ落ちるなどして出来た有機物が細い尿路に詰まった可能性が強いらしい。先生は「顕微鏡ではストルバイトなどは殆ど発見できず、カテーテル挿入時もすんなり入っていきました。尿路結石がある猫はカテーテルを入れるときにジャリジャリするし、実際にザラザラした結晶がおチンチンの先から出てきますからねぇ。」と言っていた。

     膀胱炎は繰り返す可能性があるので、油断はできない。いつも排尿の様子を見ていないと、いつ詰まるか判らない。なかなか大変だ。

     さて、美助と病院で再会した時は、これでもかというぐらい頭をシルバーバーチャンの手にこすりつけ、目を細めて、院内に響くぐらいに喉をゴロゴロ鳴らして、再会の喜びを猫なりに精一杯表現していた。これほど感情豊かなコだったとは・・。

     シルバーバーチャンには遠隔感応で判っていたが、治療のためケージに入れられた慣れない環境でかなりの緊張状態にあったのだ。シルバーバーチャンの聞きなれた声、顔、臭いで一気に緊張が氷解したのだろう。

     猫にも豊かな感情があることを再確認したシルバーバーチャンであった。

     猫だけではない、犬、猿、牛、豚、鳥・・・皆、感情があり、時に緊張もし、時に恐怖もし、痛みを感じ、時に喜び、時にはしゃぐなど人間と情が通い合う仲間なのだ。

     しかし、人間は自らの利益のために、肉食の必要性を喧伝し、それに踊らされた大衆は造られた必要性を盾にしながら、実質は己の「楽しみ」の為に仲間を殺し、その死体を食べる。その上に美食家(グルメ、gourmet)と称する一部の奢侈に流れ高級ぶった、しかし精神文明的には低級な者たちは、肉食=殺戮=死体貪食(どんしょく:むさぼり食べる事)の事実を美辞麗句をもってベールで覆い、高級感を醸し出し、仲間の殺戮容認に拍車をかける。

     信頼していた人間に裏切られ、激痛の中で絶命させられる仲間の悲しみはいかばかりか?

     人間は、動物の≪ご遺体≫の一部を頬張り、舌鼓を打ちながら、動物番組に感動し、動物映画に涙し、ペットショップのショウウィンドウの前で「かわいい」を連呼する。

     

     緑豊かなアルプスの麓のような牧場に放牧されているかわいい子羊を見て・・・・・

    「ああ~ん、かわい~い。」

     血を抜くため生きたまま逆さ吊りにし、直後に喉をかき切られ、激痛に目を剥き、酸欠で口をパクパクさせて、苦しんだ挙句に絶命し、鮮血で深紅に染まった冷たいコンクリートに横たえられたまだ温かい身体をバラバラにされていく子羊を見て・・・・・

    「いや~ん、かわいそう~。」

     調理された子羊の死体を食べて、一転・・・・・

    「う~ん、お~いち~い。」

    これを肉食愚鈍三段活用という。

    この後、特殊用法というのがある。

    癌などになって・・・・・

    「どうして私だけがこんな目にぃー!!私は何も「悪い事」してないのにー!あわわぁ!死にたくない!死にたくないよぅ!神も仏もあるもんか!呪ってやる、恨んでやる!!(でも、同じように死にたくない子羊よ、私はお前を食べたいから、私のために死になさい!)あひぃーい!私だけは死にたくないよぅ!私だけは誰か助けて!」

     という活用法が待っているかも知れない。肉食は確実に癌体質へと細胞レベル、それを支持する波動レベルで身体を変容させて行く。

    ベジタリアンな有名人(ええ?金メダリストカールルイスはビーガンベジタリアン?あの筋肉は何からできてるの?)『▼菜食のススメ』より←超お勧めサイト

    ≪↑このページの一番下の「HOME」でトップページに行って見てください。勉強になりますよ。レタスからだって筋肉はつくられるんだな、これが。『動物の死体(肉)⇒アミノ酸に分解⇒合成して自分の筋肉』より『分解するのに極めて少ないエネルギーで済む野菜⇒アミノ酸⇒合成して自分の筋肉&脂肪無し』のほうがeffective&healthyでしょ。≫

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    『正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)

     シルバーバーチャンは取っている立場が、肉食廃絶にあるため、ブログに載せる記事で肉食を容認する事はない。

     が、現実問題として、『肉食を止めたいが「諸般の事情により」やめられない、どうしたらいいか?』と相談を受ける事がある。

    最も多いのが、自分はベジタリアンという生き方を選択したいのは山々なのだが、家族の了解がどうしても取れないというものだ。子供や特に配偶者の了解、同居の両親や義父義母の反対にあって敢え無く肉食卒業を断念するケースが少なからずある。

     こんな時シルバーバーチャンはこう答えることにしている。

     『正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り。』と。

     記事『肉食と戦争』でも書いたが、想いのあり方が戦争をなくしもし、なくさなくもするなら、自分の都合に合わせて≪攻撃的心を内包しながら≫相手をコテンパンに傷つけ、打ちのめし、論破してしまっては、喩え肉食廃絶が正しい行為であっても、攻撃する心で相手を折伏するなら、そこにはもはや愛はなく、己の満足のための支配があるに過ぎない。「私は100%正しい肉食廃絶を訴え、実践している。お前はどうだ!ん?賤しく野蛮に肉を貪りつづけるか!」と。言われた側も自分が汚く野蛮な原人にでもなったような気になるが、だからといって肉食神話を信じているのだから、それで肉食を止めるわけでもなく、互いによろしくない雰囲気になるだけのことで、何ら建設的、創造的方向に事は滑り出さない。肉食廃絶が100%正義であったとしても、そこに愛が無ければ、「(自分の)正義を掲げたテロ」に通ずるのだ。ベジタリアンという生き方はジハード(聖戦)であってはならない。戦いである以上肯定はされ得ない。ベジタリアンであるか否かをめぐって肉弾戦が展開される事はないにしても、想念の世界においては戦ったに等しいのだ。「まず始めに想念ありき」だ。その想念が大きくは戦争へと続いていくのだ。更に大きくは人類の想念の総体が自然現象に影響を及ぼし、天災となって具現化してくる事は近い将来、帰納法的に証明される時が来るだろう。正しい事を主張しても、悪想念を発すれば、それは既に間違いを犯したことになるのだ。

     

     シルバーバーチャンはベジタリアンであることを貫ける恵まれた環境にあるし、シルバーバーチャンがベジタリアンということは公然の事実だし、周囲もそれを理解してくれる仲間達なので、事あるごとに「○○は大丈夫?食べられる?」と聞いてくれるし、シルバーバーチャンも食べないなら食べないとハッキリ言う。反対にシルバーバーチャンの目の前で、友人知己が肉を食べていても、咎めもしないし、批判もしない。それでも「肉、喰うのやめようかなぁ。」と言い出す「同志」は徐々に増えてきている。しかし、そういう尊敬に値する高邁な精神進化を遂げようとする友人知己も、帰宅すれば家族がいて、そうもいかない・・・これが現実なのだ。その家族もいずれ肉食の非に興味を示し、「卒業」する日がくるかも知れない(こないかも知れない)。シルバーバーチャンの周辺にベジタリアンが増えてくるのは、想念の作用、想いのなせる技なのだ。ベジタリアンである事を強要してはならない。肉食する者を非難してはならない。

     「親父の背中」的ベジタリアンな生き方がよい。強要せずとも、時に応じてベジタリアンであること、その理由、動物達の置かれた現状を、相手の置かれた立場を思いやって話す事だ。そして自分自身がベジタリアンな生き方をする事こそが、百万言費やしてベジタリアンライフと動物への愛情を「講釈」するよりも遥かに説得力のある「親父の背中」となる。その「親父の背中」を見て、『変わった奴だ』と通り過ぎるか『「親父」の生き方に共鳴した。色々と障害はあるが、俺も後に続こう。』と思うかは、その相手の心の進化・発達の度合いと置かれた環境・立場次第だろう。何れにせよ強要する事ではない。≪かつてワカゾーだったシルバーバーチャンはこれが解らず、肉食を巡って母親との「戦争」に明け暮れていた。未熟だったのだ。≫

     そして、その背景にある想念のあり方は、いつしか大きな潮流となって世界を動かすに違いない。「100匹目の猿」が誕生するのはいつの日だろうか?

    (**「100匹目の猿」は1980年代前半当時、「100番目の猿」と翻訳されていたが、いつしか「匹」に変わっていた。**)

     急進的なベジの方々は『そんな生ぬるい事を言っていたら、いつまでたっても肉食はこの世からなくならないし、いつまでも無邪気な動物達は肉食主義者の犠牲になりつづけるじゃないか!今日一日でどれだけの無垢な命が奪われたと思ってるんだ!』と息巻くかも知れない。が、反対に急進的行動に出ても、肉食は決してなくならないし、そこに伴う攻撃的想念が現界での戦争へと続く道であることも変わらない。ならば、静かに「親父の背中」を見せて、導く事の方が賢明だという事になりはしないか。人は最終的には言葉に共鳴するのではなく、生き方に共鳴するのだから。シルバーバーチャンの経験ではそうだ。現にベジタリアンはそうして増えつつある。

     『どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り。』

    ベジタリアンであることに拘泥して、自分はあたかも聖者であるかのごとき思い上がりと思い違いをし、肉食を好む者、事情があって仕方なく肉食を継続する者を下卑た存在として見るなら、それは宗教的ドグマや選民思想と何ら変わりはない。ベジタリアンであることは「免罪符」になりえないのだ。神は愛なき正義を誉める事は無いだろう。

    (神という言葉は誤解を招きやすい昨今、別の言い方をすれば、『宇宙に、そして路傍の石にさえも偏在し、法則を司る峻厳な、時には一見残酷な大愛の、大いなる意志』とでも言おうか。)

    (***従ってビーガンベジタリアンであるシルバーバーチャンであってすら、争いが生じる危険性があるなら、例えば牛の死体を申し訳程度だが口にするに違いない。ワカゾー時代のシルバーバーチャンが親の脛をかじっていた頃は、「戦争」に敗れれば肉を食わざるを得なかった。独立してからはそんな状況に「追い込まれた」事はまだ無いが・・。***)

     いつか人類が挙って(こぞって)、加速度的に肉食を放擲する日が来る事を願って・・。

    「想念作用(その1)」
    「想念作用(その2)」 

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    シリーズ第7回 『アセンションを阻むもの』

     現在、三次元太陽系では地球を第三惑星、火星を第四惑星、木星を第五惑星としているが、今を遡ること約20万年前、木星は第六惑星であった。
     火星と木星の間には、別の天体があり、そこには現在の地球より若干なりとも唯物科学の進歩した惑星人が棲息していた。
     現在、地球ではアステロイドベルトと呼ばれる小惑星群である。 

     三次元宇宙空間に存在する不良惑星に棲息する不良惑星人の唯物科学では、何光年と距離が離れた他の惑星へ移動する手段を持つ事は出来ない。もし、優良惑星人の有する高度な「次元科学」を手中にすれば、現在の地球人他不良惑星人の精神文明では他を侵略・蹂躙する手段に間違いなく転用される。平和利用の名の元に開発され、防衛の名のものとに発展させ、遂には軍事転用に至るのである。(平和利用という言葉が存在する事自体、そうでない利用をする惑星人であると宣言しているようなものである。さもなければ平和利用などといちいち強調する必要はなく、平和利用という言葉も存在し得ないはずである。)実際には、優良惑星人が有するほどの高度科学を軍事転用するなど不良惑星人には不可能である。
     何故なら、優良惑星人が有する高度科学に到達する前に、必ずその未完成科学にて自らを滅ぼす道を辿るためである。現在の地球の「核」の扱いを見ればこれ以上言及の必要はなかろう。
     よって、何光年、何十光年の距離を超えて地球に来訪する惑星人の中に不良惑星人が存在する可能性は百万が一にもないのである。不良惑星人の唯物科学を極限まで発展させたところで、宇宙時空間と次元を自在に往来することは不可能だからである。
     別の言い方をすれば、優良惑星人であるが故に確固たる能力となる精神感応力および種々の特殊能力をして初めて発見し、応用し、発展させることができる高次元科学を不良惑星人の精神レベルでは発見し得ないということである。せいぜい現行の唯物科学を極限にまで発達させ、戦争に転用して自滅の道を選ぶのが関の山である。

     さて、20万年前に存在した本来の第五惑星は、不良惑星特有の文明末期の様相を呈してた。
     往時の第五惑星はその唯物科学を極限まで発達させ、惑星全域に汚染のない箇所はないと言われるまで、陸海空遍(あまね)く穢し、その惑星人の心根を顕現していた。

     優良惑星人の居住地に建つ住居はその驕り高ぶらない確かな理念と低い姿勢を顕現して、地球で言えば平屋の建物である。それに比し、どの不良惑星においても例外なく、その惑星人の驕り高ぶる心を顕現して超高層ビル群が建ち並ぶのである。どの不良惑星も工業化を進め、これこそ文明の進歩であるとして自己満足に浸るのである。優良惑星は例外なくその超科学力に比して牧歌調の景観である。惑星人は自然の一部に過ぎず、環境は人類のためだけにあるのではなく、様々な生命の進化・向上の場であることをよく理解し、その理念が高いため、惑星の極一部のみを惑星人の利用地域としている。その愛と調和の高度科学により惑星全域を知り尽くしているが、環境を破壊することなく、殆どを手付かずのまま、他の同朋である動植物の「聖域」として暮らしている。地球人が想像するような高層ビル群がパイプのようなチューブでつながった都邑はどこにもない。
     どの不良惑星も文明のエネルギー供給方法は電気に行き着き、大量生産、大量消費、大量廃棄文明の維持のため、その発電方法を火力、原子力に頼るようになる。若い不良惑星は未だ風力、地熱による発電が主流であるが、爛熟した不良惑星は例外なく核科学を発展させ、原子力発電を推進する。
    優良惑星においては全てのエネルギーは空間から取り出す無公害のエネルギーであり、かつ重力制御技術による移動手段で、生活空間を自由に行き交っている。地球のようなアスファルトで固め、大地を窒息させるような道路開発は必要なく、家屋の周辺に小道が存在するのみである。自然環境の調査は地球人のようにサンプル採取し、顕微鏡で観察し、分類し名前を付けて理論を説明しようとするようなものではない。この程度の科学では、顕微鏡でいくら観察しても例えば人間の「心」の一片たりとも観察することは出来ないのである。
    シルバーバーチャル星では調査地に調査設備を設置し、その調査地の波動情報を全て解析し、これを実験室で具現化させる。物質を支えているのは波動であるため、この波動が全てを理解する鍵なのである。不良惑星人の持つ唯物的計測機器、観察機器では検知不能な潜象界の情報も漏れなく収集してくるのである。不良惑星人は波動の具現化である結果に過ぎない現象を研究するのみであるため、唯物科学の域を出ることはできない。

     今では小惑星群となってしまった第五惑星では、現在の地球よりも工業化は進み、惑星人は多くの矛盾と苦しみを抱えながらも、「我が世の春」を謳歌していた。現在の地球と同じくこれに危機感を募らせる正義の者たちが警世の声を上げてはいたものの、圧倒的大多数の唯物的にして文化人と称する人種や、自己確立なく浮動する大衆の嘲笑の前にその必死の声はかき消されていた。
     貨幣経済の複雑さも頂点に達し、不必要な物品を次々に造らなければ成り立たない大量生産、大量廃棄文明となり、マネーゲームは熾烈を極め、正に小手先のテクニックで弱者を喰らう弱肉強食の様相は度を越えていた。高さ数百階にも及ぶ高層ビルが林立し、愛なき商行為が横行し、拝金主義企業は益々勢いを増し、官はこれらと癒着して腐敗し、大衆は愚民政策にまんまと乗せられ踊らされ、一部の富裕層の為に飼い慣らされる経済家畜と成り果てながらもこれに気付かないままでいた。惑星の各地でこのような事態に至り、国家間、民族間の緊張は利権とイデオロギーをめぐって常に一触即発の世界情勢であった。環境破壊とそれに伴う他の生命の蹂躙(じゅうりん)は激しく、絶滅する種も後を絶たなかった。惑星規模の取り返しのつかない破壊行為を意識することもなく、大衆は虚栄心の権化と成り果て、豪奢な暮らしを求め、これを手に入れ、惑星史上嘗(かつ)てない文明の進歩として誇らしげに「我が世の春」を謳歌していたのである。

     そして遂に、惑星人が数万年の過去から蓄積してきた業想念が一挙に自己崩壊し、天変地異を惹起してしまった。これにより、各国家が有していた核兵器及び原子力発電施設の破壊・崩壊により各地で核炸裂が数日に渡って起こった。このとき一大国家を築いていたウルマキと呼ばれる国家の政治的混乱と内乱に乗じて核全面世界大戦に突入してしまった。地球人はそこまで浅はかでないと思ってはいけない。「ヤラれればヤル」これが地球人の現状である。親を殺され、兄弟姉妹を殺され、恋人を殺され、家屋を失い、土地を追われた大衆は、その復讐の心を自制することは出来ず、選挙により「就職」する政治指導層は、飼い慣らしたはずの愚民の声に自らの地位を失うことを恐れ、世の報復論に従い復讐のボタンを押すのである。

     過去の記事で触れたように全ては波動に支持され形成されているのだから、波動の在り方・操作如何(いかん)では物質はどのようにもその形質を変えることが出来るのである。
     地球の量子論でも物質の粒子と波動の両面の性格があることを突き止めているように、原子核を融合、分裂操作することは波動そのものの変化を引き起こすのである。また、核炸裂の波動は不良惑星の科学で推し量ることの出来るものではない。この核炸裂の波動を惑星各地で一斉に発すると惑星そのものを支持する波動に影響し、惑星そのものが核心から大爆発を起こすのである。いかなる天体においても、その存在と運行は三次元物質を支持する波動によるものである。他の天体と親星(太陽)から受ける微妙な波同との調和で成り立つのである。物質の分子・原子の究極である核が破裂する時の波動は勿論、人類が日々発する想念波動も三次元に限定して作用するものではない。この波動を三次元の事象しか捉えられない計測機器のみで捕捉することは不可能なのである。
    (日月神示では「平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に復立体、復々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ」という表現がある。地球の平面科学では捉えられない世界の話であるし、これがそのまま半霊半物質の世界へと通ずるのである。)
     優良惑星人のような所謂超能力による潜象界を把握する高次元科学なくしては、人類想念波動が天災地変の誘因となり、核炸裂の波動が地軸や内核に影響を及ぼすことを捉えることは出来ないが、三次元の物質を支持する波動において、他の隣接する天体と恒星から受ける微妙な波動との調律を狂わせれば、惑星の存立と運行を司る波動も狂わせ、その天体の根本的破壊へと続く事を知らなければならない。
     平面科学で全てを判断する唯物科学思想を以って、心有る者達による警世の声を妨げる輩は「時が満ちた」ら茫然自失となって、その「ポカン」と開いた口が閉じる間もなく一掃されるであろう。

     こうして核全面大戦に突入後、太陽系第五惑星は核心から大爆発を起こし、表層岩石も溶岩も宇宙空間に飛散したのである。
     第五惑星人類はその進化・向上の足場を失い、中でも唯物思想と奢侈(しゃし:非常に贅沢なこと)な暮らしに流れ、警世の声に耳を傾けることもなかった者は、更に劣悪な原始星や不良惑星に転生して行き、心ある者らの一部は現存地球人類として転生を繰り返し、心の修行を積んで来ているのである。それでも転生できた者は一握りであり、大部分は三次元時間にして20万年経過しても、転生出来ずに焦熱の次元で苦しむ魂が圧倒的に多い。他の多くの種、多くの生命の為にも在る惑星の破壊を招く程の人類業想念の一部を形成した以上、一個人の魂であってもその責任は重かつ大であるためである。
     現存地球人類には、この20万年の間に他の不良惑星に転生して学習を積み、やっと現存地球人類として転生してきている者も混在しているし、第五惑星とは縁のない他の不良惑星から地球に転生してきた者もいる。現存地球は、嘗て大いなる過ちを犯して自滅した魂が「敗者復活」する場でもある。多くの魂がその潜在意識層では敗者復活を、アセンションという千載一遇のチャンスに賭けて、この地球に参集しているのである。今度こそ進化・向上の正しい流れに乗らなければならない。

     業想念の自己崩壊により起こる一大天譴とそれに続くアセンションは進化・向上を欣求する者には厳しく狭き門であっても至福の世界へと続く喜ばしい試練であるが、それ以前に一大天譴で惹起される核爆発により、惑星そのものが破壊される事だけは何としても回避せねばならないのである。(実はこの核全面戦争により全球核炸裂させ、地球惑星の流星化・小惑星化を目論む存在が背後に存在しているのだが・・。)
     日月神示では≪原爆にも水爆にもビクともしない肉体≫という表記がある。
    ≪半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。今のやり方ではどうにもならなくなるぞ。今の世は灰にするより他に方法のない所がたくさんあるぞ。灰になる肉体であってはならん。原爆にも水爆にもビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。岩戸開きとはこのことであるぞ。少しぐらいは人民つらいであろうなれど、勇んでやりて下されよ。≫
    一大天譴はほぼ避けられない現状を見越して、こう言っているのかも知れない。つまりヌルゾーン及びフォトンベルトに突入してから、半霊半物質に変容する人類が現れ、その直後に一大天譴が起こり、局地的核の連鎖爆発が核兵器や核施設保有国で予想される。その中で半霊半物質の身体に変容した者は「ビクともしない」事を言っているのであろう。更にその後のアセンション(次元上昇のクライマックス)へと続くものと思われる。
     これはシルバーバーチャル星人にも判らない。どの優良惑星人にも判らない、神々といえども、三次元に辛うじて接触できる最高の領域の存在では判りえないことなのである(それ以上の次元の存在とは三次元は低すぎて接触不能である)。日月神示で≪神様でさえ、このこと判らん御方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。≫といっているのはこのことであろう。
     この一連の大激動は、内宇宙ばかりか外宇宙の存在までが地球次元に来訪して観察する程、宇宙間の一大関心事なのである。

     日月神示には≪一度は仮死の状態にして、魂も肉体も半分のところは入れ替えて、ミロクの世の人民として甦らす仕組み、心得なされよ。神様でさえ、このこと判らん御方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。 大掃除激しくなると、世界の人民みな、仮死の状態となるのじゃ。掃除終わってから因縁の身魂のみを神がつまみあげて、息吹き返してミロクの世の人民と致すのじゃ。≫とある。
     2005年現在から加速度的に、天災地変、紛争戦争、奇病発生、疫病蔓延、犯罪激増、人心荒廃と、世は騒然となり、いよいよ時期迫り、フォトンベルトに突入する。所謂「暗黒の3日間」と呼ばれるフォトンベルトの表層であるヌルゾーンを通過する間、地球の気温は瞬く間に摂氏マイナス70度になるという。 ≪一度は仮死状態にして≫とはこのことを言うのではないか。
     普段太陽からの波動が途絶えない限り、夜であれ、冬であれ、マイナス70度にまで全球(地球全体)の気温が下がることはない。ヌルゾーンに入るとあっという間に凍結が起こる。ほぼ「全球瞬間凍結」に近い急速冷凍が起こることになる。この凍結とその後のフォトンベルト本体への突入で、肉体的には2本の螺旋から「本来の」12本螺旋の遺伝子構造へ戻り、精神的には業想念の影響から個々人を保護するためにかけてあったブロックを外し、(=≪魂も肉体も半分のところは入れ替えて≫)半霊半物質次元の存在となる(=≪ミロクの世の人民としてよみがえらす仕組み≫)。そうでない者は三次元地球地上でそのまま凍結死亡するか、息を吹き返してもその直後に襲う一大天譴と連鎖で惑星地上数箇所で起こる局地的な核施設・核弾頭爆発の中で淘汰されるのではないか。このとき既に半霊半物質の身体に変わった人類は≪灰になる肉体であってはならん。原爆にも水爆にもビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質で作った何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。≫とあるように、≪因縁の身魂のみを神がつまみあげて、息吹き返してミロクの世の人民と致す≫のであろう。
     さらにフォトンベルト深部に進むにつれ、愈々(いよいよ)アセンションが起こる。ここで小難であれば三次元上地球は現火星のような一見死の惑星と化し、一応存続するが現存地球人類は死に絶える。しかし、やがて植物だけは復活する。(これが植物と動物の属性の決定的違いを示す現象であるが、言及は別の機会に譲る。)新生地球はこの三次元地球を足場にしながらも、≪立立体の世界≫、≪半霊半物質の世界≫で至福の時代に入っていくであろう。

     これは全球核炸裂を回避した場合の話である。アセンションを阻むものは、粗野にして反省なき地球惑星人と愛と調和に到達し得ない唯物科学の極みによる核炸裂である。
     核の廃絶は何故出来ないか。それは地球惑星人には相互不信あるが故である。精神感応力なきが故である。
     何としても核全面大戦は回避せねばならない。生命進化の足場となる惑星そのものの存続に関わるからである。
    ≪神の臣民と獣と立て分けると申してあろうが。世の様見て早う改心して、身魂洗濯致して、神の御用つとめてくれよ。≫

     神の御用とは宗教団体に属したり、徒党を組んで「ごっこ」をすることではない。個々人一人ひとりが身・魂共に浄化を進めることである。
    「身」にあってはベジタリアンであることも条件の内の一つである。
    ≪四つ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。神民の食物は五穀野菜の類であるぞ。食物は科学的栄養のみにとらわれてはならん。霊の栄養大切。≫
    ≪日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。今度は共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ。≫
    ≪外国の四ツ足の真似を致して、結構な家の内で、牛や馬の肉を煮いて喰うたり、首に畜生の皮を捲いたり、畜生の毛で織った物を肌に着けたり、それがさっぱり四ツ足の性来が現れて居るのであるぞよ。≫
    ≪日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食べ物あるぞ。人民の食べ物間違えるでないぞ。≫

     業想念層には屠殺されてきた動物達の憤怒と悲哀の想念も累々と蓄積されている。悪想念を欲しいままに振舞う人類の業想念と、肉食主義者らの需要により屠殺された動物達の憤怒、怨恨、悲哀の破壊的想念は今日も累々と業想念として蓄積されている。未だに肉食主義者の欲望の猛威収まらぬ昨今、2005年現在において後7年2ヶ月でこれを浄化しきれるか・・・甚だ疑問である。

    「魂」にあっては、想念波動の浄化、この一点である。即ち妬み、羨み、不信感、猜疑心、際限なき欲望、自分と自分の家族さえよければよしとする想い、怨恨、不平、不満、心配、焦燥感、苛立ち、腹立ち、憎悪、攻撃、排他的想念、我田引水な競争心、闘争心などありとあらゆる否定的想念の制御である。同時に、周囲の浮動の意見に振り回されず己なりの軸をしっかり据えた自己確立、過去の記事で詳述した善悪を超越した正しき判断、順境でも逆境でも与えられた人生の課題を学習教材として楽しく明るく学ぶ姿勢、相互信頼と互助の精神、ありがとう、ありがとうの感謝の心を習い性となるまで己のものとすることである。

    Think globally, act locallyとよく言われるがその通りである。
    世界に思いを馳せ、身近なところから実行することである。いかに壮大なスケールで思案に耽っても、それだけでは何も変わり行くことはない。限られた小さな肉体に乗った魂が、その身体を使ってしか実行され得ないのである。己の身の丈に合った一歩を踏み出すべきである。ベジタリアンであることも小食であることも、佳きにつけ悪しきにつけ感謝行を継続することも日々の個人の小さな暮らしの中にある。

     シルバーバーチャンのこのブログは単なる文字情報である。読んで知ることは大事だが、「知」のみでは進化・向上は覚束ない。シルバーバーチャル星他優良惑星の価値は全て愛念に根ざしている。「知」も「愛」も必要なのである。親の子に対する愛に関する書物を数百冊熟読して得た知識は、親の子に対する愛念そのものにはかなわないではないか。また、愛あればこそ、その実践の為により知ろうともするものである。

     「先ず知ること、知ったらその愛を実践すること」。世界に思いを馳せてどこかの団体に所属して大声を張り上げている暇があるなら、まず己の足元を固めねばならない。身の丈に合った実践の積み重ねしかないのである。全ての個々人がこれをする時、団体もそれに所属する必要もない。

    ≪何もかも、人民までも変わるのが今度の大立替え。食物も、衣類も、住居も、みな変わるぞと申している時が来ているのぞ。≫

    再び・・・
    ≪神の臣民と獣と立て分けると申してあろうが。世の様見て早う改心して、身魂洗濯致して、神の御用つとめてくれよ。≫

    本日これまで。

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    シリーズ第8回 『現存地球惑星人の来歴』

     シリーズ第7回に登場した太陽系第五惑星の崩壊は20万年前であり、そのとき自滅した不良惑星人の一部はアセンションに捲土重来を期して、再び現存地球人類として転生してきているが、この20万年よりはるかに遡る五千万年前の地球が今回(第8回)の舞台である。

     優良惑星となって数百年の惑星から数万年、数十万年、数百万年と歴史を重ねて進化しつづける惑星まで、優良惑星といっても、その進化の度合いは様々である。しかし、優良惑星に位置付けられることに違いはなく、互いに技術、文化、人的交流が為され、互いの独自性と進化の度合いを尊重しながら、互いに向上しつつある。

     不良惑星から優良惑星に昇格して歴史の浅い星では、己に内在する否定的想念を克服して不良惑星時代から艱難辛苦を乗り越えて輝かし優良惑星時代へと入った往時の難儀も忘れ、その暮らしが極めて平和のうちに快適であるが故に、極々僅かではあるが不良惑星当時の想念を抱き始める不心得者が現れることがある。大抵はその惑星内において再教育が施され、優良惑星人として「社会復帰」するのであるが、程度の激しい場合は肉体を持ったまま又は転生して他の不良惑星に「収監」されることがある。

     さて、三次元地球地上に初めて人類が登場するのは実に五千万年前に遡る。第五惑星が崩壊したのが20万年前というのも気が遠くなる時間だが、それを更に四千九百八十万年遡る宇宙的歴史の舞台である。

     地球の生物学でもダーウィンの進化論にはやはり無理があるとして、唯物的生物学に疑念を差し挟む声があがってきてはいるが、一般的には未だに通念として多くの地球人がこれを信じているのが現状である。
     地球の生物進化はダーウィンの進化論では、突然変異で生まれた種が偶然にもその環境に適しており、有利な立場にあったため繁殖し、そうでないものは滅び、現在の形に落ち着いているというものである。確かに生物の進化における形態変化には多様性があり、環境に合わせてその姿、機能を変化させ得る資質を持っている。

     しかし、ダーウィン進化論のように唯物的機械論的進化論で多様性を語れば、羽の生えたカバが空を飛んだり、首の長いシマウマがいたり、時速200キロで走るトカゲがいてもいいことになる。ありとあらゆる奇想天外な種が生まれ環境に適応できれば生き残り、そうでなければ滅んだとすれば、その奇想天外で多種多様な動物の化石が世界のあちらこちらで発見されるはずである。なぜ長い牙の生えたコアラがいないのか、なぜ羽が生え、冬には海を渡るサルがいないのか、なぜ歯が生えそろって獲物を咀嚼する(噛み砕く)蛇がいないのか。この疑問はなぜ現存地球人類にはミッシングリンクがあるのかという疑問と根底を同じくするのである。

    【ミッシングリンク】
     読んで字の如く失われたリンクである。人類の祖先であるとされる有名なアウストラロピテクスと人類と猿の共通の祖先であるプロコンスルとの間には約1千万年の空白があり、プロコンスルとアウストラロピテクスを繋ぐ化石人類は見つかっていない。つまりプロコンスルからアウストラロピテクスは直接繋がっておらず、アウストラロピテクスは突然のように史上に姿を現したかのように見えるのである。実は突然現れたかのようなこの進化は、生命波動によりわずか数世代で起こったのである。曽祖父からひ孫までの期間で、「似て非なるもの」へと一気に進化してしまったのである。生命波動を盛んに受けて、波動の具現化である遺伝子が変異し、その結果生物として進化、変容したのである。
    (次の関連サイトではこれをウィルスによるものとしているが、その真偽はさておき、人類のみならず惑星の生物進化はこの関連サイトの記述にあるように突然のように起こっている。
    『シードマスターの謎』

     このシリーズで度々述べてきたように、あらゆる存在の実質は潜象界の波動であり、その波動が具現化したものが、現象界である現界、霊界の物質や霊質である。地球の科学でも量子論により物質の究極は物質ではないと徐々に明らかにされてきた。
     この波動により支えられた物質であり霊質であるのだ。つまり波動が変われば現象も変化するのだから、プロコンスルからアウストラロピテクスまでの進化を驚異的短期間で成し遂げ得るのである。これは進化というより、もはや「変身」「変化(へんげ)」と言ってよい。

     生物の進化も例外ではない。その系の進化は親星である恒星から発せられる波動により司られている。地球惑星の場合、太陽からの大中小様々なサイクルの組み合わせで、段階的に生物進化が促されるよう波動が高められて来たことは過去の記事で既述した通りである。恐竜が滅んだのも波動の段階的上昇により不要な生物となり、その生物の中でそれまで生存体験を積んだ魂は、進化して現れた生物として転生を繰り返してきたのである。こうして地球惑星誕生以来、植物の進化にともない、魚類、爬虫類、両生類、鳥類、哺乳類各種と動物の進化も促進された。これらは全て太陽からの生物進化促進の波動によるものであった。個々の肉体に宿り生存体験を積む以上、この進化は億単位の年数を要することは言うまでもない。

     そういう意味ではダーウィンの進化論でいう異種交配の結果できた亜種や新種や突然変異種が環境に適応して生き残っていった事は間違いではない。しかし、翼を持ったカバや長い牙を持ったコアラや首の長いシマウマなど「やりたい放題の何でもあり」状態にならないのは、生物の形態、基本能力が親星から発せられる波動により規定されているためである。波動にないモデルは具現化しないのである。羽の生えたカバが波動設計されていなければ、そのようなカバは存在しないことになるのである。ダーウィンの過ちは、生物進化は機械論的に偶然の突然変異を繰り返し、偶然に偶然が重なって偶然現在に至るとした唯物論にある。偶然とは「谷底に向かって石を投げ落とし続けたら、いつしか谷底に超精密な建築技術を凌駕するようなピラミッドが出来上がっていた」ようなものである。

     さて、こうして人類の登場へと繋がるのであるが、これは飽くまで地球惑星で発生した未開人類の話である。

     現存地球人類の構成はこの未開人類から進化してきたものと、「そうでないもの」が存在する。即ち他の惑星からの入植者の子孫・末裔なのである。

     太陽系の中でも地球惑星は安定期に入るのが非常に遅れてしまった。惑星は本来2つの衛星を従えるのが、その質量の均衡上もっとも好条件なのであるが、地球はその生成期において、大きな衛星が一つしかできなかったため、衛星の質量が大きく、均衡不安定となったのであった。これが2つの衛星であったなら、第二、第四惑星とほぼ同時期に安定期に入れたはずであった。しかし、これは宇宙暦で更に更にマクロ的視座から思慮する時、地球惑星が安定期に入るのを「態々(わざわざ)」大幅に遅らせたことには大きな意味があるが、これをここで語るのは時期尚早である。ただ一言「宇宙一切偶然はない」に留めておく。

     宇宙に存在する全ての生命の進化を一般化すれば次のようになる。
    一なる叡智者により発せられた大想念が物質化し様々な島宇宙を形成する。太陽系が属する銀河系もこの島宇宙の一つである。その島宇宙を構成する系(例:太陽系)の各々の惑星(地球)とその衛星(月)の地殻が固まりつつあると、その系の中心である親星(太陽)から発せられる生命発生のための波動が盛んに送られて、各惑星・衛星には有機体から生物が次々に発生する。

    【どの惑星・衛星であれ、植物がまず始めに誕生する。植物の役割は各惑星・衛星を自ら移動活動できる動物を発生させる下準備と発生以降の動物を育む事にあるのである。したがって、各惑星がいかなる地殻変動を経由しても、タネの形で生き残り、必ず復活するように仕組まれているのである。動物はその個体が一たび死ねば同じ個体が生き返ることはなく、生殖によってしか種の保存ができないが、タネという形で幾千年後までも発芽の可能性を維持しつづけ、条件が揃えば復活するという、言わば「命の保存」ができるのが植物であることを慮れば、植物の存在意義が動物の発生、生育、進化の為に用意されたものであると理解できよう。動物とはまったくその進化系を異にする奉仕的存在なのである。よって、動物のように脳を持たず、痛覚を持たず、地に根を張り、逃げることなく、親星の波動を受けて自らを滋養し、水を必要とすると同時にその地殻に根を張り、地殻に水を保持する役割を果すなど奉仕する存在として宇宙進化、物質である生物進化、実質である生命進化の中でその役割を果たしているのである。人類のように自我の発達はないため個々の魂があるわけでなく、動物達のような類魂でもない。植物の形質としての進化は親星からの波動の規制範囲内で行なわれるが、人間を含む動物の魂のように個々の魂が進化向上し続ける存在ではない。現象界における形質の進化はあるが、魂の進化はないということである。植物は個々の魂を有するというより、植物全体を括る一つの大きな「精」のようなものと考えると概念的に近い。地球上の言葉でこれを説明するのは大変困難であるが何とかまとめると、『植物とは動物への奉仕の為に用意された存在であるが、この植物には自我意識というようなものはなく、個々の人間や個々の動物にある個々の魂というような存在ではない。植物一つ一つに対応して個々の魂があるのではなく、植物一切を束ねる潜象界の意識形態の一つである「精」は惑星全体の環境維持や動物の進化・向上に貢献・奉仕することで、これを喜びとしている。』と表現すれば通じるであろうか。しかし、この植物の、物言わぬ静かにして大いなる活躍も親星からの生命発生の波動あっての事である。日月神示にもこうある。『四つ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。神民の食物は五穀野菜の類であるぞ」と。】

     生物が次々に発生すると当然の如く、波動により定められた通り、人類の発生へと繋がる。地球初の未開人類の発生である。これらは地球の考古学生物学でも猿から類人猿へ、類人猿から原人へと進化した痕跡が化石として多数発見されているのは周知の通りである。しかし、現存地球人類は地球で発生した未開人類が進化した者だけで構成されているのではない。
     ミッシングリンクが示すように、現生人類までの進化の道程は一直線に繋がっているのではないのである。

     過去の記事でも僅かに触れたように、現存地球文明の前には少なくとも4つの時期4つの大文明が存在し、文明発生と崩壊を繰り返してきた。伝説のミウ大陸(ミューもしくはムー大陸ともいう)やアトランティス大陸とそれらの文明の崩壊もこの内である。一部はオーパーツとしてその崩壊をかすかに今に伝える遺物として現代に残されている。

     では、本稿冒頭の五千万年前の地球に舞台を戻そう。
    地殻が安定するのが太陽系の他の惑星より遅れた地球惑星に初めて人類が「降り立った」のは五千万年前であった。往時まだ地球で発生した人類は存在してはいなかった。他の寿命を迎えた島宇宙からこの島宇宙(銀河系)へと往時盛んに優良惑星人らが居住可能な惑星を探査して、この太陽系にも訪れていた。これは宇宙間の優良惑星では極めて普通のことであり、一惑星の中に閉じこもってこれを全世界だとしているのは不良惑星人である。当時の地球の気候は温暖であり、植物も既に被子植物が現れて久しく、果実類も芳香を放ち楽園のようであった。地殻変動も一巡し安定期に入ったように思われたが、一優良惑星人が棲息し始めて約百年後、地殻に不安定な諸条件を発見して、他の惑星に入植した別のグループと行動を共にすることとし、一旦地球を後にした。これが地球に残された人類初の足跡である。

     それから更に1千万年の時を経て、地球では哺乳類の進化上の分化も進み、地球初の未開人類も既に発生していた。(勿論この未開人類は、現存地球人類がその学問上知り得る未開人類ではない。)
     期を同じくして、宇宙間の、特に優良惑星としては歴史の浅い惑星では、本稿冒頭に述べたような「不良惑星当時の想念を抱き始める不心得者」が現れることがあり、各優良惑星ではこのことを大変憂慮していた。十二の優良惑星の長老等代表者の合議により、これらの者をそれぞれの優良惑星から若き未開の星、地球に移住させたのである。

     優良惑星人が未開の惑星に入植し、その惑星の未開人類の守護、進化を援助することは、優良惑星人の使命、奉仕の一つであるが、地球の未開人類も例外なく優良惑星人の庇護を多大に受けていた。地球に現存する洞窟に異形の「神」の姿を描いた壁画は、当時の未開人類が彼らを援助する優良惑星人を神とも崇めた史実を物語るものである。これらの優良惑星人は、この地球未開惑星人の観察と保護の為、地球に頻繁に来訪するため、それを兼ねてこれら不心得なる厄介者を同じ地球にて管理監督し、自活させる事に決定したのであった。

     これらの優良惑星人不適格者らには、工業手段など一切与えず出発させ、少人数の共同生活を通じて、奉仕する喜び、他が為の労働の喜び、協調心や生かしある波動とその現象である万物への感謝の意義とその重要性を再び悟らせようとしたのである。厄介者とはいえ優良惑星レベルの不適格者である故に、母星長老らの意図を確りと受止め、母星で習得した技術を持って稔りの多い生活を営むようになっていった。いずれは地球発生の未開人類の兄姉として援護する働きを期待されていたのである。

     しかし、不良惑星時代の否定的想念を内心から追放して無の心になる修行を怠っている内に、数百年が経過し、再び慢心し、我欲を露わにする者が現れてきた。ここかしこに出来ていた少人数単位の村落は合併して巨大化し、国家の原型を作り、その集団同士で土地の所有を巡り争奪戦が展開されるようにまでなってしまった。火種は『最も文明の高い惑星、遊星から来たのは我が種族である。』と自他を分離して優劣を競うたわいもないことからであった。これは現存地球人類の世界でも見かける民族間の分離・対立の様相と同じである。

     こうして、数にものを言わせた集団は武装し、軍隊を持ち、国家社会を形成して繁栄し始めた。力による階級が発生し、その力を集約する方法として貨幣経済が始動し、徳や愛念による役割分担ではなく、貨幣始め財の所有による支配・被支配が生まれたのである。王族や貴族が現れたのもこの頃である。挙句の果てには本来保護・援助すべき対象である地球発生の未開人類を捕らえては奴隷として酷使する始末であった。

     この模様は現在の地球の神話にも登場することがある。日本では神代を語る古史・古伝や古事記、日本書紀にも「国津神」として登場するのである。(古事記や日本書紀にも重大な改竄(かいざん)があり、現在事実であったと思われる内容が事実ではなく、事実でないとされる部分が実は真相であったりする。)これに対し「天津神」とされるのが、これら優良惑星から所払いとなった厄介者たちに輪をかけて傲慢となったその子孫(国津神)の慢心と我欲を諌(いさ)めるため幾度となく地球を訪れていた優良惑星人であった。また、地球を訪れる手段は勿論『天の浮舟(アメノウキフネ)』であった。

     しかし、権力を手中に収め、地球地上に不徳の文明を築いて根を張った厄介者の子孫は一向に優良惑星人の諌めの言葉も、神々の御箴言(しんげん:戒めとなる短い句)も聞き入れず、驕り高ぶる姿勢は頂点に達していた。地球に降ろされた当時はまだ精神感応力も残存していたが、時代が下ったこの頃には優良惑星人の基礎的能力である精神感応力も完全に失っていた。それに比例するかのように言語も発達して行かざるを得なかった。

     この地球各地に築き上げられた不徳の文明群は、現存地球人の文明とは工業技術や社会システムの表層は異なってはいても、その本質においては何ら変わることはなく、その荒廃した精神文明の様子は正に現存地球人類の想念の在り方と酷似していた。即ち人類同士、又人類と動物においても、弱者を踏みにじって一部の権力者が富裕層となり肥え太り、階級制度も激しく、環境破壊も一段と進み、弱者はより弱者を求めて搾取し、唯物科学をもって都邑を築き、己の目先の利害得失に汲々としながら、向かう先も判らず、人生を迷い、迷うが故に刹那に生き、万民是我欲の権化と成り果てていた。この弱者蹂躙の一大迷妄文明がどうして優良惑星へと向かう進化の流れ、即ち天則に適うことがあろうか。

     過去の想念作用(1)と(2)で述べたように、この不徳の文明はいよいよ業想念の一大崩壊の時を迎えるのであった。この地球地上初の業想念崩壊による天変地異により、地殻が激しく変動して、この一大迷妄文明は滅び去った。地殻変動のエネルギーはそれまでに蓄積された業想念を象徴するかのように凄まじく、文明の痕跡を僅かに残すだけで大部分は地殻の深部へと崩落して行き、深く落ち込む地殻に押し出される形で海底が隆起した。ここに一大迷妄文明とその人類(肉体)は終焉を迎えたのであった。所謂(いわゆる)造山運動は、これ以後の緩やかな地殻変動によるもので、当時から現在まで陥没を免れた山脈上部には当時海底に生息した魚介類の化石が今でも実によく発見されている。

     初めて地球霊界に地獄界といわれる次元が生じたのはこの時であった。地球霊界の初発は極めて単純なもので、物質界へと転生する方法として、また転生条件判定の一時保留所としての役割であった。先の国家社会をこの物質界で形成し始めた頃から、その人類精神構造の複雑性を反映して今日の原型とも言うべき上下段階等複雑な霊界を形成し始めた。(勿論霊位の高いものが高い霊界〔とはいっても不良惑星の中での高低である〕に住していくのは普遍の天則である。)遂に、この業想念崩壊と共に霊界入りした業深き魂により地獄界に相当する次元が発生することとなったのである。

     そして地殻変動を免れた陸地の植物は、既述の如く徐々に生息地を拡大し、数百年後にはまた安定して人類の生息可能な条件を整え上げたのであった。この頃太陽系内外の優良惑星は、優良惑星となって歴史の浅い星々が未だ多く、時として我と欲心を捨てきれない優良惑星不適格の著しい者達が現れ、またも地球に降ろされて、小集団の村落が形成されるようになり、そして、またも三千年から五千年を経て一大文明を築くのであるが、想念制御の修行を怠り、また々々業想念の崩壊と文明の崩落を招いたのであった。こうした文明の「リセット」を繰り返しても、同じ霊界を通じて転生する以上、各時期の文明の構成員である魂は同じ集団であるため、文明が変わり、生まれ変わり、死に変わって肉体が変わろうとも、相も変わらず否定的想念制御が出来ずに現存地球文明に繋がっているのである。

     化石などで発見される類人猿や原人は、現存地球文明直前の大文明が崩落・滅亡した後、植物の復活で原生林に帰した地球惑星から再び始まった進化の道程上の痕跡である。既出のプロコンスルやアウストラロピテクスや猿の原種など現在地球上の学問で言われてる進化物語以前に既に4つの大文明が4つの時期に存在していたのである。黎明、発展、爛熟、崩壊を実に4度も繰り返しながら、宇宙間の厄介者、新たな優良惑星不適格者などを徐々に加えながら、4つの文明を時代を下りながら転生しつづけてきたのが現代文明人たちである。冒頭で述べたように、迫り来るアセンションを千載一遇のチャンスとして賭ける魂は、嘗て優良惑星から不適格者として降ろされて悠久の歴史の中で転生を繰り返した者に、時代が下り他の不良惑星からの転生してきた者、若い優良惑星で生じた不適格者などが加わって次第にその数を増しながら、ある時はミウ大陸(ムー大陸)やアトランティス大陸などに生息し、不良惑星人を「卒業」できずに迷妄文明を渡り歩いて暮らして来た者達である。現在の地球上で文明圏に棲息する地球人類の殆どがこれに属しているのである。

     今回迎えようとしている業想念崩壊による一大天譴は凡そ過去の文明崩落と同じであるが、その直後に控えるアセンションが従来の地球惑星にはないことである。

     本シリーズ第1回末尾に【おまけ記事(2)】として、書籍「プリズム・オブ・リラ」(リサ・ロイヤル、キース・プリースト共著)から抜粋して付記したような宇宙一大叙事詩は決して絵空事ではなく、広大無辺なる宇宙空間では至極当然の事象であることをここに改めて訴えておきたい。一惑星内の不徳の唯物文明に自らを閉ざし、智を閉ざし、大愛の波動から心を閉ざしていてはいけない。同書には勿論、真実とは異なる箇所も散見されるが、地球という一惑星に自らの思いを閉じ込め、現存文明を人類進化の当然の帰結であるとする狭隘な迷妄を払拭する一助として、同書により想像力豊かに大宇宙文明に思いを馳せてみることに価値はある。読者諸兄におかれては、将(まさ)に崩壊しようとする文明に対し、気の遠くなるような歴史を通じて働きかけ、滅亡の淵から一人でも多く同朋を救い出そうと啓蒙し、愛念を送り、尽力する優良惑星人の確かな存在を感じ取って頂きたい。業想念崩壊による一大天譴は地球惑星人自ら蒔いた種である故、如何に優良惑星人が擬態しながら地球人類の中に紛れ込み尽力しようと、その業想念を帳消しすることによる文明崩壊を免除することは出来ない。地球惑星人を救うのは地球惑星人自らの想念でしかない。救世主など特定の人物が現れて世を救うなどということは決してないのである。

     中世にあっては山脈のこちら側に住んでいる村落の民が山脈を越えて向こう側に行くことなく、その生涯を終えることなど当たり前の話であった。が、今は中世ではないばかりか、不良惑星から優良惑星へ飛躍するという地球史上初の大きな峠を超えなければならない期に差し掛かっているのである。心を開き、この大峠を越えるには人類の、またその犠牲になる動物達の否定的想念、悪想念の制御と清浄化をせねばならない。いつまでも「山のこちら側」で心を閉ざしていてはいけないのである。

    本日これまで。

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    シリーズ第9回 『邪神・邪霊』
            夜明け前、いよいよ激しく巧妙に

     現存地球人類の歴史以前には既に4つの時期に4つの大文明が存在していた事を第8回で扱ったが、この数千万年の時期を少しずつでも霊位・霊性が進化・向上しているならば仮令(たとえ)その歩みが遅くとも良しとせねばならない。広大無辺な宇宙間の全ての存在は一なる創造主、叡智者の大愛へと向かって進化するように仕組まれており、この進化の流れに乗ってさえいれば、その歩みが速ければ良いというものでもなく、遅くともそこには必ずそれなりの意義があることである。
     同一の魂が、ある転生の舞台では大変な学びをして大幅に進み、ある転生の舞台では平坦で平凡な人生を送るなどして他生との比較においては大した学びのないこともある。(とは言っても、それはそれで他の転生のためにもそれなりの意義があり、’無駄な転生’’無駄な人生’など無いのである。)
     肉体人間としては何事もなく平々凡々と暮らせれば、思い煩うこともなく、比較的楽な人生を送れることは間違いない。が、そこには大した学びはない。しかし、その魂はその前の世で息をもつかせぬ激動の人生を歩んで大変な目に遭い、そこから大悟して多くを学んだかもしれないのである。そして今回の転生には「骨休め」的な意味もあって、穏やかな一生なのかも知れないし、穏やかな人生という体験も必要なのである。一魂の一人生の中でさえ、緩と急があるではないか。どうであれ、魂の転生とそのシナリオは人智では計り知れない深遠な計画であり、与えられた事には順境であれ逆境であれ、それなりにその魂がこなすべき「課題」があり、そこには必ず意義があり、感謝せねばならないのである。それが中々出来ないからこそ不良惑星人として何千万年も転生を続けてきたのである。

     さて、生命・魂は生物として肉体を持ち物質界に生き、死して霊界入りして物質界での己の想念ログを振り返り、そこに不備があれば反省し、その不備を次の世の課題として勇んでこの世に出てくる。今度こそ「クリアできなかった課題をこなすんだ」と。楽に越えられる課題など進化には繋がらないことは自明の理である。そのために様々な障害に遭遇する。転生先の様々な時代を背景にして、人とぶつかり、金に苦しみ、健康を損ない、息の詰まるような人生の閉塞感に苛まれたりと、それはそれはありとあらゆる負の出来事を何百回、何千回の転生の中で体験してくる。しかしその負の出来事は「己の鏡」であって、根本的に負ではない。己に不備あれば、何らかの形でその心に欠けたところがある為、課題として具現化するのである。物質界で体験する本質的には悪でない「悪」も本質的には不幸でない「不幸」も、心の欠陥に気付くために必要なものなのである。欠陥なくばその悪も必要ないといえる。悪に見える「悪」はどこまでもいつまでも存在するが、無効か有効かという問題である。悪の種があっても水をやらねば悪の芽は出ないといえばよいか。この水とは即ち惑星人の悪想念のことである。
     日月神示ではこれを≪悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。善に向かって働いても、善はビクともせんのぢゃ。ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。合わせ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。悔い改めて弥栄するのであるぞ。≫と表わしている。

     悪に見える「悪」とは何も犯罪ばかりではない。不幸も悪とするなら、先天的に肉体に不具合があったりするのも悪に見える「悪」である。それが過去世に仕出かした何らかのカルマ(業)の償還として反省し、進化・向上するため、苦痛体験を積む場合もあるし、カルマ(業)ではないが敢えて五体に不具のある肉体を選んで転生し、社会的弱者の心情を推し量れる愛の度量を備えようと修行に出てくる場合もある。実に勇ましい魂である。敢えて不具の身体を纏って転生したような場合は、不良惑星人としては最終段階の高い位置にいる可能性は大である。これをどうして「悪」と呼ぶ必要があろうか。だからといって「悪」と和合せよというのではない。己の心の中の悪想念こそが悪である故に、その≪悪の気断ちて下され≫ということである。即ち悪想念の制御である。現象として起こる「悪」は悪ではない。容赦すべし。悪を見て義憤(正義の怒り)を我慢することではない。容赦すべし。我慢は、表面上取り繕って平静を装えば赦しと見えるが、内心に怒りとなって渦巻けば、その我慢はもう悪であると言っているのだ。容赦すべし。
     各国の映画に見るように、特に日本は勧善懲悪(善を勧めて悪を懲らしめる)という単純・短絡正義を美徳としてきた精神文化がある。「悪は徹底的にやっつけ」て「めでたしめでたし」という傾向が大変強い。その中で≪悪を抱き参らせ≫て≪悪憎まず、(己の)悪の気断ちて≫行くのだから大変な修行である。しかし我慢ではない、容赦すべし。例えば、殺人事件が起こった場合、地球社会では単に殺害された被害者を不憫(ふびん)と思い、加害者を八つ裂きにしても赦すまじとするが、その加害者は激怒の波動に同調してその加害者に入り込んだ負のエネルギー、即ち、地球人のいう恨みの念を持った背後の地獄霊や邪霊により、前後の見境を失って殺人という暴挙に出ることが多い。また、その被害者は嘗(かつ)て前の世、前々の世で加害者であった場合も非常に多いのである。そしてこの加害者は次の世で殺人事件の被害者となることも十二分にあるのだから、加害者も被害者も≪(己に内在する)悪の気≫を解消できずに、カルマを背負い、巡り巡る因果の中で負のスパイラルダウンに落ちていくのである。生まれ変わって死に変わり、殺して殺されて≪悪の気≫を断ち切れぬまま苦しい転生を繰り返しているのである。即ち悪想念の極みをカルマとして抱きつづけていく誠に哀れな魂である。
     この業がなければ殺人事件に巻き込まれることもない。即ち≪悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。善に向かって働いても、善はビクともせんのぢゃ。ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。合わせ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫である。タネのないところにいくら水を撒いても芽は出ないのである。殺人に限らず、日々の暮らしの中に起こる事象は、善きにつけ悪しきにつけ、「タネ」があり、何かをきっかけ(水)にして現象化するのである。よって、原因は己にある故に、順境にも逆境にも感謝が必要であると言っているのである。

     さて、こうした進化のサイクルに乗りながら様々な動物としての生物の肉体を経験して、遂に自我意識の発達を得て、未開人類となり、不良惑星人類とその霊界人、優良惑星人類とその上級霊界人、上級人霊となり、更に更に大愛を学び、遂には肉体を必要とせず、次元を上げながら、時には人類の導きのため三次元に転生する高級霊人となり、更に高級霊(ここまで来るともう「個性」も欠片(かけら)程しか残っていない。個性を最大限発揮するのは不良惑星人の時代である。)更に聖霊、更に更に神々となり、一なる創造主へと近づいていくのである。勿論この根源の神、創造神を凌駕することは決して出来ない。創った存在を造られた存在が越えることは出来ないからである。また、こうした分類は三次元人類のための便宜であり、厳密なものではないし、言葉に捕らわれてはならない。優良惑星人は当然の概念と事実として、これらの尊体の御存在と御働きを、その精神感応力を以ってよく得心し感謝の念と共にあるが、特に不良惑星人の段階では、自らを「万物の霊長」と称して、その思い上がりも甚(はなは)だしい。「万物の霊長」などと思い上がっているからこそ、命の同朋である動物らを屠殺して食料とすることが、常識として罷(まか)り通る社会を形成し、業想念に屠殺された動物等の憤怒(ふんぬ)、悲哀、怨恨等悪想念を蓄積しておきながら、顔色一つ変えずにいるのである。

     さて、不良惑星人の爛熟と崩壊の悠久の歴史を、共にして来た別の者がある。宇宙間には進化のサイクルに逆行する存在がいるのである。超マクロ的な意味では、この逆行する者たちも存在を赦される以上、必要な存在なのではあるが、存在を赦されることを良いことに、実によろしくない働きをする。
     太古の4つの文明においても現代文明においても、その背後で暗躍し、地球人類の理念を眠らせようと肉体人間を操って画策し、唯物思想を蔓延させる一方、その対極である宗教も作り出し、この宗教を利用して世の中を毒すなど、財界、政界、宗教界の隅々までその負の影響力凄まじき存在である。

     地上では邪神・邪霊と呼ばれる存在である。以下はこれら邪神・邪霊の発生についてである。
     彼ら邪神・邪霊といえども、気の遠くなるような太古においては元々人間であり、三次元にまだ転生できている頃は不良惑星人として宇宙間の不良惑星に存命していた。

     ただし、地球上では既に4つの時期に4つの大文明が各地に勃興しては滅亡してきたが、これらの迷妄文明に生きた不良惑星人、即ち現存地球人類へと転生してきている魂が邪神・邪霊になったわけではない。第8回の記事の通り、地球は誕生して若い星であるため、未だ邪神・邪霊が発生したことはないのである。そして来るべき業想念の自己崩壊による一大天譴とアセンションにより今後邪神・邪霊が地球上で発生することも最早ない。しかし、一大天譴と同時に核大戦を引き起こし、全球核炸裂により、アセンション後の地球の足場となる三次元地球惑星を小惑星化しようと目論んでいるのである。この動きさえなければ一大天譴は回避不能として大量淘汰が実行されても、アセンションは予定通り実行されるのである。しかし、仮令邪神・邪霊と呼ばれる者達が存在しようとも、≪悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫であるように、これも地球惑星人さえ悪想念を発しなければ、そして動物達の屠殺や生体実験により業想念に負のエネルギーを蓄積しなければ、邪神・邪霊も何の影響力もないことを断言しておく。地球惑星の命運は地球惑星人の想念とその想念に裏打ちされた行動次第なのである。

     では、如何にして邪神・邪霊が発生したかの経緯は、太古に遡って次のとおりである。

     現在の地球惑星に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する邪神・邪霊らは太古の昔、不良惑星人として棲息していたが、魂の進化・向上の道を逆行し、地球人のいう無間地獄という次元に墜ちてしまった者達が起源である。生きている人間でさえ自分が人として向上する喜びを味わう時、その心に訪れる幸福感に歓喜するものである。しかし、反対に何年も何年も同じ事の繰り返しで、目から鱗の落ちるような学びなどない時、心は沈み鈍感となり、目先の悦楽を見つけでもすればまっしぐらに沈溺(たんでき)していくものであろう。目先の悦楽や気晴らしのある肉体人間は、魂の進化・向上なく虚無に暮らしても、心的苦痛は少ないが、精神が剥(む)き出し状態であるような霊体では進化・向上こそがその喜びと活力であるため、緩慢な無聊(ぶりょう:何も無く退屈なこと)と虚無は想像を絶する苦痛なのである。この地獄に落ちた者達を地獄霊と呼ぶなら、この地獄霊達は何百年間も何千年間も間断ない苦痛にあっても反省もなく、生命進化のサイクルに乗ることも無く、益々苦痛は累積して呪い怨む念を盛んに起こすようになる。そして肉体をもって暮らしていた地上生活を思い起こして、地獄の次元から脱出しようともがき苦しむようになる。
     地上では相変わらず悪想念を欲しいままに発しつづけ、特に呪い怨む念を発する不良惑星人に、波長同調性の法則により(ラジオの周波数を合わせると特定のその周波数を持った電波を受信するように)、その地獄霊は地上の不良惑星人に憑依する機会を得るのである。ここが後に邪神・邪霊へと成長していく出発点である。

     一たび地上の肉体人間に憑依した地獄霊は、地獄次元の苦痛に比べれば、この憑依は快適この上ないため、簡単なことではその呪い怨むことが性根になってしまっている肉体人間から離れることがない。その人間が死んでは次の人間に、またその人間が生きているうちでも時に他の肉体を渡り歩いて何万年何十万年の憑依経験を積んで、どんどんと老獪(ろうかい:歳を取り世俗の経験を積んで狡猾なこと、ずるがしこいこと)になって、遂には不良惑星人を支配する能力も身に付けていく。支配するとは単なる憑依ではなく、本当に操るほどの能力である。現地球惑星各国家の政治指導者の殆どにこうした邪神が這って支配しているのである。邪霊は、肉体人間に憑依して渡り歩く期間が数百年から数千年と浅い邪神予備軍である。
     現今の邪神・邪霊は、このシリーズ第1回の最後に『更に地球はオリオン星人の影響も多分に受けることになった。オリオンは琴座、ベガ星人、シリウスの子孫であり、いずれ述べることになるが地球と良し悪しは別として密接な関連がある。ここではオリオンは激しい「戦場」であったとだけ言っておく。』と述したように「戦場」であったオリオン星座の不良惑星から来たものが多い。『オリオン星人の影響も多分に受けることとなった。』としたが、厳密にはオリオン星座の各不良惑星で発生した邪神・邪霊というのが正しい。また、太陽系では冥王星から、土星外星からも大挙して地球に押し寄せてきている。その他は他の不良惑星からの邪神・邪霊である。
     これらの邪神・邪霊も太古のオリオンなどでは肉体をもって棲息し、死して地獄霊となっていた者が、先の経緯を経て邪神・邪霊になったのであり、地球霊界の地獄霊が最早邪神に成長する時間はないため、同じ憑依でも地球惑星人に地球霊界の地獄霊がとり憑くこととは同じではない。
     地獄霊は、地上生活時の己の心の誤りによって、地球霊界の地獄界という次元に墜ちて間もない者、何百年と地獄にて暮らす反省の遅れた者達である。また邪神・邪霊は再び霊界に戻ろうとは決してせず、肉体人間を渡り歩いて暮らすのに対し、地獄霊は肉体人間から肉体人間を渡り歩くために憑依すること自体を目的とする者は少なく、肉体人間に救いを求めるために憑依する者が多い。または、既述のように、地上生活中の怨念を晴らすために憑依するものも多い。いずれにせよ、その目的を果たせば肉体人間から離れていく霊体である。特に波長同調性により先祖子孫はその家系の業を巡って数世代間同じ家系内で転生して、同じ霊性を有するものが家族、先祖子孫として集うことがよくある。この波長の同調性により暗黒の境涯に落ちた先祖が子孫に救いを求めて災いすることもある。苦しめるための憑依ではなく救いを求める典型である。地球惑星人は我が子孫に頼って災いをもたらす醜態を晒(さら)すことのないよう醒悟していかねばならない。
     
     この記事から離れる読者が現れる始めるのもこの頃であることをシルバーバーチャンは知っている。邪神・邪霊と聞いて拒否したり、否定の心、疑念の心を惹起するのは、内に邪霊を既に抱えんでいるか、それらと同体となりつつある証左である。
     シルバーバーチャンは、この地球惑星人の越えねばならない大峠の前に、耳障りのいい愛の言葉を説くことはない。真理の言葉を盗略して、美辞麗句で飾り、人心を知らず知らずに曇らすことなど邪神には朝飯前のことである。
    邪神ですら真理を説くのである。九割(90%)は正神の言葉を盗んで真理を説き、安心させ、残り一割(10%)で見事に騙す。邪神ほどの老獪な存在であるが故に出来ることである。平等を説き、平和を語り、人心を美辞麗句に酔わせ、「いざ、いざ行かむ」と神の顔をして、人を獣へと導くのである。それは肉体人間が「知」で判断するからである。「知」は重要ではあるが、知のみにては何とも進まなくなる時が来る。ここに必要なのが曇りなき理念である。理念で判断すれば、理屈や理論や知識は二の次三の次となるのである。しかし、精神感応力を持たない不良惑星人には簡単なことではない。だからそこ言葉を尽くさざるを得ないのである。しかし、言葉には限界がある。日月神示でいう『神一厘の秘策』は一割(10%)で人を欺く邪神を、更にその一厘(1%)で欺き返す『元の元の元の神』の秘策なのである。邪神ほど老獪な存在に見破られぬ秘策は、進化のサイクルに乗った神々といえども、その中には秘策が何なのか確りとは判らぬ御尊体もあられるということである。ましてや、1秒先も判らぬそこいらの不良惑星人に見通せるものではない。

     日月神示の助けを借りれば≪まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。よく見分けなならんぞ。悪の大将は光り輝いているのざぞ、神の印つけた悪くるぞ。悪の顔した神あるぞ。≫
    「知」のみにてはどうにもならない世に既に突入しているのである。

     そして、現今の日本で、世界各地で不良良惑星人の中には霊波に感応しやすい霊感の強い者もあり、宇宙の御尊体と邪神・邪霊の区別もつかず、邪神・邪霊の傀儡(操り人形)となって、正神の真理を大方において語り、その中に「ひょいひょい」と落とし穴を作って霊感の無い者の背後まで邪霊を「感染」させているのである。彼等にも霊能力があることは確かだが、優良惑星人の有する正神と繋ぐ超能力ではなく、邪霊と繋がるその心に≪悪の気≫あれば、いかにして人を導くか。どこへ導くというのか。地獄へであるか。世に奇跡や不思議現象を起こして、世人の瞠目を集める花々しいレイノウシャには関わらぬが賢明である。
    ≪夜明け前(シルバーバーチャン注:一大天譴とアセンション)になると霊がかり(シルバーバーチャン注:霊能者)がうようよ、勝手放題まぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言≫
    ≪ウヨウヨしている霊がかりにまだ、だまされて御座る人民おおいのう、なんと申したらわかるのであるか≫
    ≪早う目覚めよ、因縁と申しながら、かわいそうなからくどう申して聞かせているのであるぞ、マコトの道にかえれよ≫

     シルバーバーチャル星の他、優良惑星人の棲息する社会には、地球のような神社・仏閣・聖堂等凡そ宗教的施設は存在しない。教義を持ち、教祖を崇め、偶像を崇拝し、徒党を組んだ挙句にいつしか選民思想に染まり、各宗教宗派で対立し、救われたいの欲心で一心熱心に献金し、散財し、教団は「営利団体」と成り果てて教勢を競い合う必要など微塵もないためである。地球人の信者らが、清貧を旨として暮らすことは一概に悪いこととは言わないが、その動機が間違っていることが多い。現世での欲を抑えて堪(こら)えて、自己犠牲の上に教団に尽くし上げ、その教義を世間に広く浸透すべく、日夜活動する姿は一見結構なことのようだが、その心根は「現世での栄耀栄華は諦(あきら)めて、あの世で救われたい。あの世で極楽に行きたい。」との欲心開花のステージを「この世からあの世にすりかえただけ」の事が多いのである。欲を捨てなさいとする教えを「あの世で報われるから」という欲で実行している矛盾である。現世利益を謳(うた)う教団・信者にあっては論外であり言葉もない。
     勿論、中には誠に殊勝な信者もおり、正神に繋がる者も極々々々稀に存在する。こういう信者は何もその宗教に入信したから正しい道を歩んでいるというわけではない。進化・向上の正しい道、即ち生命進化のサイクルに乗り、静意(しずこころ)にて内省し、日々の事象を己の心の写し鏡として、己の心に欠けたところを正し行き、多くを学んで理念を磨き上げた者は、たとえ邪教に入信すれども正神の波長に同調する道理である。反対に仮令、正神の御言葉に触れようとも、その心に≪悪の気≫を抱え、即ち悪想念を欲しいままに日々を放縦に過ごせば、正神のその御言葉は単なる知識であり、その行く末は暗黒の境涯となるのも道理である。

    少し長くなるが日月神示でも同じ下りがあるので、以下にその一部を謹んで引用させていただく。

    ≪真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。真の信仰に入らねば、真の善も真の信も真の悪も真の偽りも判らんのぢゃ。
    今に岩戸開いてあきらかになったら宗教いらんぞ、政治いらんぞ。
    高い心境へ入ったら神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。
    右の頬を打たれたら左の頬を出せよ。それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ。
    それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。
    マコトに居れば相手が手を振り上げて打つことは出来ん。よく聞き分けて下されよ。
    笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが。
    これが無抵抗ぞ、世界一家天下泰平ぢゃ。左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。
    まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。よく見分けなならんぞ。
    悪の大将は光り輝いているのざぞ、神の印つけた悪くるぞ。悪の顔した神あるぞ。
    信仰を得て霊的に病気を治すのは一瞬には治らんぞ。
    奇跡的に治るとみるのは間違い迷信ぞ。時間もいり手数もかかる。物も金もいる。
    大き努力いるのであるぞ。取り違い多いのう。
    この神のもとへ来て信心さえしていたら善いことある様に思うているが、大間違いぞ。
    この方のもとに参りて先ず借金取りに借金払いして下されよ。
    苦しいこと出来てくるのが御神得ぞ。
    この方のもとへ来て悪くなったと言う人民遠慮いらん帰りてくれよ。そんな軽い信心は信心ではないぞ。
    結構な苦しみが判らん臣民一人も要らんのぞしっかり褌締めてついて御座れよ。
    この方悪神とも見えると申してあろうがな。
    この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあれなれど、それは大難を小難にし、またメグリ(シルバーバーチャン注:カルマ、業)が一時に来てその借金済まし(注:業の償還、消滅)をさせられているのぢゃ。
    借りた物は返さねばならん道理ぢゃ。長い目で見て良くしょうとするのが神の心ぞ。
    目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトのおかげ。
    天国を動かす力は地獄であり、光明を動かす力は暗黒である。
    地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。
    因が果にうつり、呼が吸となりゆく道理に於いて歓喜は更に歓喜を生ず。
    その一方が反抗すれはするだけ他方が活動し。また強力に制しようとする。
    この道は因縁なくては判らん難しい道であれど、この道貫かねば世界は一平にならんのぢゃ。
    縁ある人は勇んで行けるのぢゃ。
    一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ。
    元の神代に返すというのはたとえでないぞ。
    穴の中に住まなならんことも出来るぞ、生の物食うて暮らさなならんし臣民取り違いばかりしているぞ。
    何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの欲ばかり言っていると大変が出来るぞ。
    官は潰され御分皆、火にかけられ灰となる。
    この世の終わり近づきぬ。
    さあ今の内に神得積んでおかんと八分通りは獣の臣民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞いするぞ。
    キリキリ二股多いぞ、獣となれば同胞食うことあるぞ、気付けておくぞ。
    牛の食べ物食べると牛のようになるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。
    臣民の食べ物は定まっているのざぞ。四つ足は食ってはならん、共食いとなるぞ。
    草木から動物生まれると申してあろう。臣民の食べ物は五穀野菜の類いであるぞ。
    獣の食い物食う時には、一度神に献げてからにせよ。
    神から頂けよ、そうすれば神の食べ物となって何食べても大丈夫になるのぞ。
    神に献げきらぬと獣になるぞ。
    日本のてんし様が世界まるめて治めす世と致して天地神々様にお目にかけるぞ。
    てんし様の光が世界の隅々まで行き渡る仕組みが三四五の仕組みぞ岩戸開きぞ何もかも神に捧げよと申してあろうがな、それが神国の民の心得ぞ、否でも応でもそうなって来るのざぞ。
    物、自分のものと思うは天の賊ぞ、皆てんし様のものざと申してあるのにまだ判らんか。
    神にとけ入れよ、てんし様にとけ入れよ立て直しと申すのは世の元の大神様の御心のままにすることぞ。
    御光りの世にすることぞ。てんし様の御稜威輝く御代とすることぞ。
    三四五とはてんし様の稜威出づことぞ。神が世界の王になる。
    てんし様が神と判らん臣民ばかり。
    富士は晴れたり日本晴れ、てんし様が富士から世界中にみいづされる時近づいたぞ。≫

     本日これまで。

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    シリーズ第10回 『正神に奇跡無し』

     前回(第9回)では、「邪神ですら真理を説くのである。九割は正神の言葉を盗んで真理を説き、残り一割で見事に騙す」と邪神の老獪さを以て人を知らず知らずのうちに獣へと導く事を警告した。そして、それは肉体人間が「知」で判断するからであり、「知」は重要だが、それだけでは何とも進まなくなる旨も併記した。が、これは読者諸兄のように理知的かつ論理的に物事を思考する能力を有することを前提とした話であり、世間は広く、正邪の批判眼を持たぬ感覚至上で、「いい大人」であるにもかかわらず、およそ頭脳の知的活動から懸け離れた人々が悲しいことだが非常に多いのが現状のようである。よって「知」で判断する以前に、「感覚」に血迷うことを先に憂慮し、警告せねばならないようである。

     この「感覚至上主義」ともいえる傾向は平和呆けした日本国において特に激しいことは誠に悲しいことである。商行為においても売らんが為に制作される宣伝は、近年より一層コンピュータグラフィックを駆使して映像に趣向を凝らして、あたかも魅力的商品であるかのような過剰演出は目に余る。中身は全く同じ商品でありながら、パッケージを変えることで売り上げを伸ばそうと姑息な手段を採る販売方法も今では常識のようである。テレビショッピングの煽りにあっては不快感さえ覚えるのである。企業間の競争は熾烈を極め、現金をいかに自社に多く集めるかに全ての力が注がれる。貨幣経済を社会システムの根幹とする地球惑星では金に縛られている以上、今のところは致し方の無いことではあるが、企業は魅惑的画像を伴う宣伝、もしくは恐怖感を煽る宣伝などによって新たな需要を作り出して行き、消費者は商品個々の批評をすれども意識の根底で操られるトレンドに抗しきれず、いつしか企業の売上増加計画に乗せられていく。乗せられて踊るから、企業もまたより一層手の込んだやり方で激しく「笛を吹く」。マネーの流れを止めれば窒息する地球惑星企業が売り上げを獲得し続けるには、大衆を「洗脳」し続けることが第一に必要だからである。「感覚に弄ばれず、まず知を働かせよ。そして理念を発動せよ。」である。しかし、現実は作り上げられたブームに乗って(いや乗せられて)、「他人(ヒト)が行くから我も行く、他人がやるから我もやる、他人が買うから我も買う」といった自己確立のない薄っぺらな消費者がよくもまあここまで増えたものだと驚愕する。それだけ感覚に踊り踊らされる「いい大人」が多いと言うことであろう。

     ・・・『ソレって、本当に必要なモノですか?徹夜して列を為して並ぶ必要があるのですか?そんなに話のネタが必要ですか?他に高尚なネタはないのですか?そんなことをするために生まれてきたのですか?ソレが出来たら最も大事なことを置き去りにして死んでもいいのですか?明日あなたに命はありますか?他の人ではない「あなたが」ソレをすることにどんな意味がありますか?誰のためにやっているのですか?「我れ善し」ですか?八割の他人がやると自分もやらないと不安ですか?その八割が天に唾(つば)して、滅びの方角へ歩いていく人達であってもですか?』・・・

     ここに地球人の間で揶揄(やゆ)されている日本人の話がある。
    「タイタニック号が沈みつつあるとき、女性を先にボートにのせるように船長はまずイギリス人に言った『あなたたちはジェントルマンです』、次にアメリカ人に言った『ヒーローになれます』、それからドイツ人に言った『それがルールです』、最後に日本人に言った『みんなそうしていますから』」・・・。

     さて、こうした傾向は宗教始め、近年のスピリチュアリズムをも激しく侵蝕してきている。

     このシリーズでは、波動が全てであり想念波動が人類の未来を決する故に、想念の在り方が全てであると再三再四に渡って書き連ねてきた。極端な例では、たとえ邪教に入信してその誤った教説を聞こうとも、その信者の理念が確かなら正神につながり、正神の御箴言を百万遍唱えても、その理念が我欲で曇り眠っていれば、紙に書いた知識でしかなく、その者の行く末は暗黒の境涯へと落ちていくとまで書いた。

     今の地球惑星人に必要なのは、我と欲によって踏み外した迷妄文明からの脱却なのである。不徳と迷妄の原因である我欲を捨て、心を正すこと、即ち悪想念の制御こそが第一義である。これを覆い隠して愛を百万回叫んでも、今まで通り地球は何も変わらないばかりか時が迫って来ているのだから、むしろ事態は悪化していくのである。『冷水に身を置きて温かきを乞い願うが如し』とはこのことである。「冷水に身を置きて」即ち悪想念まみれの業想念層にどっぷり包まれながら、「温かきを乞い願う」即ち愛と平和を願い祈っても地球は灰になる他はないのである。

     残念ながら地球は愛の心に生きる惑星人は甚だ少ない。よって宗教に限らず、一般に愛を教え説こうとすることは道理のように見えるが、愛のみを前面に打ち出して、想念作用とその影響力を説かない者達の背後に邪神・邪霊が暗躍することを知らなければならない。優良惑星人はその暮らしが惑星を越えた同胞への奉仕であり、その暮らしが峻厳にして深い愛の実現であり、日々が学びであるから愛一辺倒の話を聞いても、曲解も誤解もなく己のものとして正神につながるが、地球人のような不良惑星人が、自らの想念浄化・想念制御を棚上げにして、愛一辺倒の話を聞いても不確かな感覚に酔いしれるだけなのである。

     そうでないというなら、一例として動物と人との愛を描いた物語に感動した直後に動物を屠殺した死肉に舌鼓を打って貪るなどどうして出来ると言うのか。どうしてそこに愛があるというのか。愛と履き違えた「我れ善し」(われよし)の自己の愛、差別の愛、独占の愛、執着の愛、嫉妬の愛、果ては色欲の愛、所有欲の愛へと際限なく獣化して行く。愛と付記されているだけで、すべて愛の皮を被った我欲ではないか。

     このような多くの地球人に只今すぐに愛の実行を求めても無理というものである。そして現実的には困難な愛の言葉のみを飾り立てて説く者達の背後には邪神・邪霊が暗躍していると言うのである。一大天譴とアセンションを前にして、最後の仕上げとばかりに総力を上げてより巧妙に勢いを増してきているのである。心ある者はこれらに酔いしれてはならない。

     愛念を発する事の出来ない者、愛の行動を立ち上がって起こす事を知らない者に、愛をどんなに耳障り良く、聞こえ良くして美辞麗句で飾っても効果はない。寧ろ、耳障りよく飾れば飾る程、感覚に酔いしれ、解ったような気になるだけなのである。今日の出版物、電波放送、インターネット上で溢れかえる如く、愛・愛・愛・愛と無闇(むやみ)に愛のみを説くのは地球人には不可能に近い愛を説いて上辺を飾り、想念作用を隠蔽する意図のある邪(よこしま)な贋物(にせもの)と知らなければならない。

     愛を表現するなといっているのではないし、愛の言葉や愛念を軽んじてよいと言っているのでもない。愛を説く前に、心を正す想念制御とその浄化が第一義であると言っているのである。これを説かずして愛のみを説く者達の背後は全て邪神・邪霊であると言って断じて過言ではない。

     地球上で言われるような愛は、遙かなる昔日からその時代を反映しながら愛・愛・愛・愛と反吐(へど)が出るほど語られてきたではないか。その結果どうなったか。地球人類は今まさにその文明の終焉を迎えようとしているではないか。自ら営々とそして累々と蓄積した業想念の自己崩壊が具現化する天災地変の「ガス抜き」によってである。ガス抜きだけで終わればよいが、第五惑星(実は第十二惑星も)のように核炸裂から全球破壊、そして小惑星化にまでなだれ込めばこれに勝る惑星人の大罪はない。人類のみならず、同朋の動物、奉仕の植物、ありとあらゆる生きとし生ける同朋の進化の道程を歩むための足場を未来永劫奪い去る天上天下の大罪である。

     負のエネルギーで膨満した業想念は、愛のみを説き想念作用とその影響を隠蔽してきた者達によって「大事に育てられて」きたのである。その正体こそがシリーズ第9回で言及した地球の流星化・小惑星化を目論む邪神・邪霊なのである。

     地球惑星人の唯物主義者に抗して、別の地球惑星人のスピリチュアリズムに共鳴するその気概は神の誉むるところではあるが、邪神・邪霊はここでも罠を仕掛けて、進化・向上を自ら目指す意志ある見上げた魂を食い物にして獣化への誘惑をささやき続けるのである。

     「そうは言っても地球人はそこまで愛なき惑星人でもあるまいに」と思うなら、地球人類の大多数の者達の心の動きを観察してみようではないか。

     地球惑星人の間でよく見かける光景に、同朋が己の非を指摘したような場合、大方の地球人は先ず立腹する。感謝の心でこれを受ける者は少なく、その指摘が的を得ている程に、その腹立ちは激しく、同朋を憎んだり恨んだりする。≪悪の気断ちて下されよ≫・・己の心中に悪想念あればこそ、その同朋の口を借りて「悪」となって己自身に忠告しているのである。

     その同朋がもし悪意をもって発言したならば、これはその同朋の≪悪の気≫悪想念ログに新たなカルマを積み上げたことになり、誠に「気の毒な恩人」なのである。新たなメグリ(カルマ、業)を積んでまで、友のメグリを取り除いたその同朋は「気の毒な恩人」である。まして、悪意なく吾が友を思えばこそ厳しく手痛い忠告をしているのならその恩人を恨む、憎むなどもっての外である。

     また、会社組織などにおいて、同僚、同朋が(現世的ではあるが)出世し、順風満帆なその姿を見て妬み嫉み羨んで、程度が激しい場合はその出世を妨害したり、泥を塗って卑しめたりするのである。更には己の不徳を知らしめる為に自ら招いたその身の不遇に対し、不平不満の心を爆発させる。また、己の無知故の迷妄にもかかわらず心配し、善悪を超越して正しく生きる努力もせずして己のみが正しいと勘違い甚だしく、他を責め、咎め、攻撃する心を起こす。また物事に執着し、互譲の精神を置き去りにして、他を押しのけて我先にと利権に群がろうと焦燥心を起こす。いずれも悪想念甚だしい波動である。

     こうして日常茶飯事に悪想念を出し放題に出すことを放置し、改善させようとはせずに、口に慈悲だの愛だの真理だのと説いて、言葉の遊びに終始し、それによって魅惑、陶酔させる者達の背後は邪神・邪霊である。

     日々の暮らしの中で腹の立つ自分をよく観察し、その腹立ちの原因は己の心のどんな欠陥からもたらされているのか明らかにしていかねばならない。それが「気付き」である。気付きは己で掴み取るものである。他人に言われてこうすればいいああすればいいとうマニュアルなどないし、あったとしてもそれを読んで自らによる気付きがなければ、単なる知識でしかないのである。想念制御の妙は己で掴み取らねばならないのである。

     そのために文字情報や先達の言に知識を求めるのは一向に構わない。そこで知って解ったような気になるのがいけないのである。解った気になり、天狗になって慢心を起こし、益々他人の忠告に腹を立てるようになる。気分だけはすっかり聖者であるが、その実はどんどんと愚か者へと成り下がっていく危険を常に孕んでいることを忘れてはならない。

     本当の気付きを自ら得て成長する程、人は謙虚になっていく。日本国では宝暦の世に生まれ(安永、寛政、文化を生きて)天保に散った二百年前の我欲なくして大悟に至った人「良寛和尚」はこの手本である。仏を説いて地獄に落ちなかったばかりか大悟に至ったのは親鸞上人と良寛和尚ぐらいのものである。

     更に言えば、忠告する相手に対して腹を立てると相手も次第に忠告さえしなくなる。会社組織(特に中小零細)などにおいて、ワンマン社長さんは最終人事権を持っているため、器の小さい社長さんの場合、取り巻きは「報復人事」を恐れて何も言わなくなる。互いに「我れ善し」が集まった組織の典型であろう。耳に痛い忠告は聞きたくない社長始め重役さんと、忠告して報復されるなら黙っておく部課長さんや社員さん・・こうなると社長・重役は裸の王様である。だれも忠告してくれないためいつまでも己の非に気付かずまたその欠けた所に関しては成長できず素っ裸でご満悦なのである。『会社はその社長の器以上に大きくならない(規模だけの話でなく)』といわれるのはこのためである。忠告が耳に入らない社長さんは快適であろうが、霊的に見ればもう終わった人である。お気の毒としか言い様がない。

     ここで忠告された側が「全くそのとおりだね。忠告有難う。」と感謝で返した時、今度は忠告した側の程度が試されるのである。

     「忠告有難う。」の素直な言霊に対し、最も多い反応は、少し恐縮し、時には照れながら「解ってくれればいいんだ。」とする普通の人の反応。次に多いのが「どうだ俺の言うとおりだろう。参ったか。」と言わんばかりの得意げな顔に満足の文字を躍らせる愚かな小物の反応。そして滅多にお目にかかれないのが「いやいや言い過ぎました。申し訳ありません。」と頭を下げる大物の謙虚な反応。これらは年齢の上下組み合わせに関係無しである。気付きとは相手の程度をも一瞬にして見抜くことにもなるのである。

     そうした己に内在する悪想念の元に気付いていく度に、「自分とはこんなにも汚く穢れた、幼い、薄い、浅い存在であったか」と衝撃を受けるはずである。気付きとは自己嫌悪に陥る実に辛い作業なのである。この気付きの切っ掛けの最たるものである他人からの忠告に、怒りと恨みで返す心のどこに愛念発動の能力があるといえるか。

     「自分発見の旅に出ます。」(by‘イケてる俺’)・・・片腹痛いとはこのことである。自分発見とは現実からの逃避ではない。それがどれほど辛く厳しい事であるか。己の不甲斐なさにどれほど愕然とし、涙する事であるか。自分発見は旅行気分の旅先にはない。日常生活の泥の中に埋まっているのである。

     また、真の自分発見という辛い作業を続けることがどれほど脆(もろ)いものか。感覚と知識のみの陶酔世界へ引き返す道は正道の横にいつでも並行して走っているのである。≪道踏み外すでないぞ。≫

     感覚に血迷う者達を騙すのは簡単至極である。超常現象、奇跡、不可思議現象を起こして、口に愛だ慈悲だと唱えれば、「これこそ神の奇跡です。素晴らしいですね。ああ、何という幸せでしょうか。」とコロリ、コロリと心酔、陶酔していく。感覚的に魅力を与えるものは知的であるとはいえない。

     肝腎なのは奇跡を起こすことではなく、その教義や訴えるところに「想念作用、特に悪想念の制御」があるかどうかである。心を正すことを説かず、飾った言葉と奇跡現象で外観を繕う魅力的、感覚的な似非ものに惑わされてはならない。

    ≪霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ、はげしくなるぞ≫
    ≪祈り祈り結構と申して、邪の祈りは邪の道におちるぞ。色々のお告げ出ると申してあろうが。今その通りぢゃ。お告げに迷うぞ。審神して聞けと申してあろう。≫
    ≪奇跡では改心出来んのであるぞ≫
    ≪正神に奇跡はない、奇跡無いことが大きな奇跡であるぞ≫
    ≪人民というものは、奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。それは外からのものであるからぢゃ。マコトの改心は、中の中のゝのキ頂いて、ホッコンの改心出来ねばならん。≫
    ≪死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなことくらいでマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今までの宗教は滅びると申してあろうが。≫
    ≪自分よくしてくれと申しているが、これは神を小遣いに思うているのぞ。おおきくなれよ。≫(神は人の小間使い、御用聞きではない。人間の欲なる願いなど叶えない)
    ≪お蔭は、すぐにはないものと思え。すぐのお蔭は下級霊。眉にツバせよ、考えよ。≫
    ≪まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。お蔭信心や病気直しの神ではまかせ切れまいがな。早う合点結構ぞ。≫
    ≪霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違い多いぞ。心せよ。≫
    ≪ウヨウヨしている霊がかりにまだ、だまされて御座る人民おおいのう。何と申したらわかるのであるか、奇跡を求めたり、我れ善しのお蔭を求めたり、下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているから、だまされるのぢゃ。霊媒の行いをよく見ればすぐ判るでないか。早う目覚めよ。因縁と申しながら、可哀想なから、くどう申して聞かせているのであるぞ、マコトの道にかえれよ≫
    ≪悪神憑かりたなれば、自分ではえらい神様がうつりていると信じ込むものぞ。可哀想なれど、それも己の天狗からぞ。取り違いからぞ。霊媒の行いよく見ればすぐ判るでないか。早う改心せよ。霊のオモチャになっている者多い世の中、大将が誰だか判らんことになるぞ。先生と申してやれば皆先生になって御座る。困ったものぞ。≫
    ≪心して、怪しいと思うことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考えよ。神の言葉でも裏表の見境無く唯に信じてはならん。サニワせよ。≫
    ≪神憑かりよくないぞ。やめて下されよ。迷う臣民出来るぞ。ほどほどにせよと申してあろうが。皆々心の掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。≫(まさに優良惑星人)
    ≪その時、その人間のキに相応した神より拝めん(その人間の想念に応じた神しか拝めない)。悪いキで拝めば、どんな立派な神前でも悪神が感応するのぢゃ。悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引っ込んで、それぞれの善き神現れるのぢゃ。この道理よく心得よ。≫
    高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。≫(宗教がなく、神社・仏閣・聖堂など勿論ない優良惑星人の生活そのもの)
    ≪都会へ都会へと、人間の作った火に集まる蛾のような心では、今度の御用出来はせんぞ。上っ面飾りてマコトのない教えのところへは、人は集まれるなれど、マコトの道伝えるところへは、臣民なかなか集まらんぞ。見て御座れよ、いくら人少なくても見事なことして御目にかけるぞ≫(八割二割・魅力や感覚に迷うなかれ。)

     優良惑星人はその一人一人が一なる創造主、≪元の元の元の神≫に心の波長を合致させることにのみ注力するのでり、いかなる他力に頼ることもない。波長がピタリと合致している限り、他力に頼らずともあらゆるものが他力となって己を支え返すのである。「自力」による「他力」である。即ち「悪想念の制御」による「進化向上の順当なサイクル」である。

     この悪想念の制御がままならぬとき人はその身を大地に打ち付けるのである。その痛みに気付いて心を正していくべし。

     正神に波長を合わせ、想念制御を全うする時、自ら求めずとも幸いを湯水の如く与えられるのである。深く厳しい自己の想念制御を為し得た者だけが手に入れる揺るぎない幸いである。

     邪神・邪霊が最も嫌う心。それは「感謝の念」と「和する心」である。「悪」を嫌ってはならない。「悪」を責めてはならないとするのも「悪」を憎んで悪想念を盛んに発することこそが悪であり、その悪想念が邪神・邪霊を大喜びさせ、力を与えることになるからである。。「悪」は悪でない。「悪」に見えるその背景事情をよく知性と理念の心眼をもって観察せねばならない。理由あっての「悪」である。『善悪を超越して正しく生きよ。』

     善きにつけ悪しきにつけ、進化・向上のため自ら選び、また与えられた課題である。『感謝の生活を為せ』

    ≪苦労、苦労と申しても、悪い苦労気の毒ざぞ。善き苦労花咲くぞ。花咲いて実結ぶのざぞ。人民苦しみさえすればよいように早合点しているなれど、それは大間違いざぞ。神の道無理ないと、くどうもうしてあろうがな。≫
    何事が起こってきても、そなたはまず喜べよ。それが苦しいことでも、悲しいことでも、喜んで迎えよ。喜ぶ心は喜び生むぞ。人民喜べば、神喜ぶと申してあろが。天地晴れるぞ、輝くぞ。≫

    褌(ふんどし)確りと締めてかかりてくだされよ。≫

    本日これまで。

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     以下は「心の道場」様のサイトです。このブログのシルバーバーチャンの偉そうで、キツイ文書なんかより深い深い愛が伝わってきますよ。今回の記事に直結する内容です。

    シルバーバーチに見る“真実の愛”
    愛を安売りする風潮の中で、本物の愛を求めて
     と題したニューズレターです。

     一部、超古代文明や異星人に関して否定的な箇所がありますが、純粋にスピリチュアリズムを求める立場がそうすることもあるし、シルバーバーチャンの記事(第9回)「地球惑星人の来歴」で既述したように、地球人類の置かれた立場を理解することが大事であり、どこに古代文明があったかなどは問題ではありません。このサイトの「どうでもいいことにこだわってはいけません」は、本質さえ掴めたなら「どうでもいいこと」で、その通りです。

     地球人に必要なのは悪想念の制御と正しき愛の学習ですから。

     優良惑星人の存在は、その後であたなの目で確かめてください。心の道場さんも、その時「ヒョェー!!」と思う・・・かも?

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    シリーズ第11回 『人類の特権と重責』
                動物の進化と人類の想念波動

     人類の想念波動が惑星の命運を握っていることは、このシリーズの一貫したテーマである。今回は、人類の発する想念波動が実は「人類以外の生命体の進化をも左右する」ということを、想念作用の別の側面として追記したい。

     先ずは、ハート出版から出ていた「ペットが死ぬとき・・誰も教えなかった別れの意味」(シルビアバーバネル著、近藤千雄訳・編)から、今回の記事内容を傍証する部分を引用させていただく。(同書は「ペットは死後も生きている」を改題した重版である。同書の「古代霊シルバーバーチに聞く」と題した質疑応答の中で、質問者とシルバーバーチの回答に、他の生命の進化に人類の想念がいかに影響を与えるかが記述されている。)

    質問者:動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は肉食や動物実験をしてはいけないのでしょうか。
    シルバーバーチ:それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上からの残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎったとき、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄り添うようになります。

    質問者:しかし、動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか。
    シルバーバーチ:あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に比べれば動物界でもずいぶん残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したものもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです。

     実にサラッと話しているが、ここには重大な内容が凝縮されているのである。
     現象界の全ては潜象界の波動が支持して存在することを知らない者にとっては、上の質疑応答の内容は頓珍漢で質問と回答が噛み合っていないように思われるであろう。

     唯物文明にすっかり毒されてしまった者、または高まる地球の波動にすでに乗り遅れつつある唯物主義者の反応は例えば次のようである。

     「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は肉食や動物実験をしてはいけないのでしょうか」という質問に対する「それが人間の進化の指標だからです。」というシルバーバーチの回答にはこう反応する。『なんでそれが人間の進化の指標なんだ?勝手に指標にするなよ。』と。

     「人間が進化すればするほど地上からの残忍性と野蛮性が消えていきます。」には『人間の進化で人間の残忍性や野蛮性が消えるのはそりゃ当然だろう。それが動物の残忍性と野蛮性と何の関係があるんだよ。動物は動物ぢゃねーか。』と反応する。

     「しかし、動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか。」という質問に対する「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に比べれば動物界でもずいぶん残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したものもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです。」というシルバーバーチの回答にはこう反応する。
     『まったくもってナンセンス!≪人間が進化したから太古と比較して動物達の残忍性が減り、トカゲ類が絶滅して・・≫はぁあぁ?・・なぜ絶滅したと思いますかぁ?・・人間が進化したからですだとぉ?何だって?人間が進化するとトカゲが絶滅すんのかよ!どういう関係があんだよ!じゃあ、俺が英語話せるようになったら、人工衛星が墜落すんのかよ!俺がミリオネアになったらカラスが絶滅すんのかよ!関係ねーだろっ!ワケ解んねーこと言ってんぢゃねーよっ!』である。

    では、そのワケを解ってもらおう。次の通りである。

     想念波動は人間個々人や人類という限られた範囲で作用するものではなく、想念作用に触れたこのシリーズの第2回、3回では、自然環境をも左右し、悪くは業想念崩壊で天災地変をより過酷な大難にする旨も述べた。良くは人類のみならず、動物という他の種族の進化を促進することにも繋がっているのである。宇宙は先ず波動ありきであり、人類の想念波動もまたそれに準ずる。即ち人類の想念波動の在り方によっては、創造された宇宙を更に進化・推進する力を持ち、その力に責任を伴っているということである。人間の本来の存在意義は全宇宙の進化を推進する神の地上代行者(分け御魂)であることにある。人類は人類の住む惑星とその惑星上に生息するあらゆる種の進化に対して特殊な使命を帯びている特別な存在なのだと理解されよう。

     特別な存在は特権を持つと同時に重い責任を背負うものである。責任を取る時はその身をもって為されるもので、言葉だけで責任、責任と言っていればよいものではない。
     シリーズ第10回で記したように、愛・愛と言葉を弄び、悪想念の制御等想念作用を蔑ろにしてきた結果、不徳の文明を築き、崩壊の淵に立たされてきたように、物理行動的および想念的実体の伴わない奇麗に化粧された言葉には意味はないばかりか、事実を隠蔽して却って宜しくないことになるのである。

     特権の使用方法を誤れば、自らの身をもって償う。本来はその特権を正しく駆使するため、人類に与えられた知性であり、理性であり、技術発明・発見であり、文明でなければならないのに、宇宙間の人類の中でも不良惑星人は自分中心で利己心に満ち満ちて「進化」を続けてしまった結果、どん詰まりの袋小路に自らを追い込んでしまったのである。
     間違った方向への「進化」は矯正せねばならない。一大天譴という一見「悪」に映る大破壊を通じ、反省を経て正しい進化の大道へと矯正するのである。

     大所高所から見れば不良惑星人というステージも正しい進化過程で通過せねばならない学習段階ではある。そして時機到来した今、いつまでも不良惑星人としてのステージで足踏みをしていてはならないのも事実である。迫るアセンションという千載一遇の機会を逃すことなく、一人でも多く優良惑星人として新たな一歩を踏み出してもらいたい。

     さて、この人類の「特権」を「使用上の注意を守って正しくお使いになって」いる存在こそが優良惑星人なのである。優良惑星にはその精神波動を反映して肉食の嗜好はない。このことに例外はなく、あればそれは優良惑星ではない。優良惑星への昇格条件の一つは肉食の放擲(ほうてき:投げ捨てること、うち捨てること)だからである。
     地球は法則どおり、惑星の波動上昇により、現象面では一大天譴とアセンションを通じて優良惑星へと昇格することが決定しているため、肉食人種は不要の存在となる。嘗て恐竜が波動上昇していく地球惑星上では、次第に不要な「型」として滅んだように、肉食人種も優良惑星へと昇格する地球では不要な旧型となるため、「廃棄処分」する必要がある。その肉体を失って別の肉体に生まれ変わるより他はない。
     ただ、恐竜の時代、恐竜たちの転生先は同じ地球環境内において、新種の生物として進化した哺乳類などであったが、優良惑星へと昇格する地球に肉食人種が転生することはこの先ありえないため、どこか別の不良惑星ないし原始星が最適な転生先となる。
     シリーズ第8回『現存地球惑星人の来歴』で述べた、嘗て優良惑星からこの不良惑星へ優良惑星不適格者として降ろされた時のように、また、この「地球大学」での課題をこなし切れず落第していくわけである。まあ、それはそれで内包する精神波動に合致しているため、他の不良惑星や原始星が相応しい転生環境なのであり、優良惑星へと昇格した新生地球に転生するようなことがあれば、それはその魂にとって却って「地獄」である。

     不良惑星人は、与えられたその知性や発明・発見や技術、延(ひ)いてはその文明における「特権」の意味を履き違え、「万物の霊長」として思い上がって、何をしても許されるとばかりにこの惑星をズタズタにしてきた。そのつもりはなくとも、想念波動の作用を知らず、一方で口に愛だの平和だの慈悲だのと唱えながら、他方で我欲の充足を優先し、悪想念をほしいままにしてきた。また、動物を殺してその死体を食料とすることで、不自然にその生存を否定される動物等の悲哀と憤怒の念が業想念層をさらに汚濁することも知らず、死体を貪り食う卑しき習慣を「豊かな食文化」などと称してその蛮行を覆い隠し、高級ぶった低級さを遺憾なく発揮してきた。数え切れぬ動物たちの惨殺という犠牲の上に。

     特権とは特別な権利であるだけに、特権の誤用に対する責任は格別重い。すなわち同じ生命の同朋である動物たちを殺して食すことを目的に肥育して、有無も言わせず惨殺し、動物達の恐怖と悲哀と憤怒(ふんぬ)と怨恨の想念を業想念に蓄積し続けた「特権の誤用」により、地球惑星波動の上昇との歪みを大いに生じ、一大天譴という徹底した大掃除による自滅で責任をとるのである。特権の誤用かつ乱用により自ら招いた人類史上最大の惨劇である。少なくともこの時点で、自ら好んで死肉を摂る者またそれを勧める者は淘汰されることになる。新生地球に居てはならない「古い型」「恐竜」だからである。

     (ついさっきまで肉を好んで食べていた者が、古い型の淘汰と聞いて驚き、突然菜食になったとする。これでは宗教と同じ「戒律」による脅しとそれにより引き起こされた「我れ善しの欲」である。本来ならば、その者が同朋である動物の進化に対する特権と重責をもった人類であるという自覚のもと、他の生命を脅かして己の欲望のために他の生命進化の機会を奪う肉食を放擲するのが利他愛であり望ましい姿である。敢えて厳しいことを言えば、己が助かりたいが為、あるいは己の健康の為という動機のみで菜食に転向するのは利己である。しかし、動機としては望ましくはないが、行為としては結果的に正しい位置に立っている。生命の同朋である動物たちをいかなる理由でも殺さない愛を実現するため、一人、二人、百人、千人、万人と肉食主義者が「投降」すればそれだけ食肉の需要は減り、結果として同朋が惨殺される悲劇は減っていくから、たとえ動機が利己であっても今のところは善しとすべきであろう。しかし、この利己による肉食放棄は、「旧型の淘汰」や「不健康」、すなわち所詮「脅し」と「不安」による欲望の抑制であるため、脅しをしばし忘れ、不安が去ったりすると「今日は久しぶりに肉でも食うか。たまには焼肉もいいじゃないか。なぁ!」とエプロンをかけてジュージューいわせてしまうのである。
     これを翻訳すると、「少しくらい体に悪いことしたってどうってことねーよ。俺の身体だし。別に動物のためにやってんじゃねーしな。今日は生命進化推進者としての特権を誤用して、仲間を殺して生命進化の機会を奪ってやるか。たまには殺しもいいじゃないか。なぁ!」となろう。

     願わくは、ベジタリアン全てが「他の生命のため」、智を啓き、慈悲の心から肉食を放棄し、これを世に訴えてもらいたいのである。シルバーバーチャンが「脅し」と「不安」をちらつかせて肉食をやめさせる手法を取らないのはこのためである。
    (但し、初発は利己心を入口としても、菜食を続けるうちに、今は意識の底に眠っている神性が浮上して、利他心に目覚め、動物等の置かれた現状に対し涙し、人類の無明に恥じ入り、立ち上がることも多々あるため、利己心を指摘することの度が過ぎてはいけないのである。)

     最近増加傾向にあるベジタリアン同志がインターネットや出版物で肉食放擲を世に訴えることは誠に麗しい行為である。「我れ善し」の利己からはホームページの立ち上げや出版の労を執ってまで肉食放擲を世に訴える心は生まれ得ないからである。そこには同朋に対する慈愛の精神が溢れているのである。これらのベジタリアン同志の肉食主義者に対する幻滅、軽蔑、そして落胆と義憤は理解できないでもないが、決して非難、攻撃する心・想念を抱いてはならないことを重ね重ね願い上げる次第である。
     その攻撃性は肉食獣を久遠に肉食獣たらしめ、草食獣にも他の肉食主義者にも想念作用を通じて宜しからざる結果を生むだけである。ベジタリアンは「正義は我らにあり」と愛のない正義を押し付けるテロ的発想をしてはならない。折角、動物に対する慈愛の心の持ち主でありながら、慈愛の心の弱い者やそれを持たない者に対する攻撃性という悪想念の罠にスッポリ落ちてしまうのは勿体ない事この上ない。
    (参考記事:『正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)

     シルバーバーチは「特権」の正しい利用方法を次のように語っている。

     『長い進化の道程のどこかの時点で、神の、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。
     その段階で人間となり、人間は判断力というものを身につけたわけです。すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。

     しかし実はそうした能力は全部始めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹で目を醒ましたわけです。
     そうして神が動物に霊性の息吹を吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。
     人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹を吹き込む事ができるはずです。つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。
     その動物はその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命の全てのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。
     また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです。』

     想念波動の作用を理解していないと、『愛があればこそ生命は進化するのです。』のくだりを抽象的表現として素通りしてしまう恐れがある。

      『(前略)そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります。』
     『いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何(いかん)によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はありえません。』
     『(人間は)神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも支配する自然法則に影響を及ぼします。』(ここでいう国家とは地球、世界、自分を取り巻く環境一切のこと。)
     『(動物の生体解剖は動機が正しければ許されるかという質問に対して)許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えと全く相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです。神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物の実験からは発見できません。』
     『(動物は人類のために地上に送られてきたのかという質問に対して)そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです。』(正確に言えば動物の「生命」進化を助けるためにであろう。そして優良惑星人は不良惑星人や未開人類を助けるために活動している。)

     宇宙間では原始星や未開星に優良惑星人が入植したり、(特に地球は優良惑星不適格者の「社会復帰のための猛反省の場」であった。)未開人類や不良惑星人に接触するのは、進化促進のための特権行使の現実的行動なのである。そこに誤用や乱用はない。法則に抵触する過干渉も当然あり得ないのである。

     例えばの話であるが、ある優良惑星人の目の前で、不良惑星人が息も絶え絶えに死につつあったとしよう。それでも、それがその魂にとって肉体を脱ぎ捨てることが必要な死であれば救命してはならないと判断できるのが優良惑星人なのである。助けるべきか死なせてやるべきか判るから、逝かせるべきなら決して手を出さない。これも愛である。不良惑星人はこの判断ができないため、どうであれ救命せねばならない。これが不良惑星人のレベルで実行できる愛である。

     話は少し逸れてしまったが、この「特権」は不良惑星人が連想するような、「他に対して優越する支配権」のことではない。宇宙進化に寄与する奉仕の精神を持つ者にとってのみ特権たり得る愛の履行権である。
     これを履き違えると地球惑星人のように人間は「万物の霊長である」などと言って思い上がり、動物を含めた弱者の犠牲の上に、我欲をますます放縦(ほうじゅう:わがまま。やりたい放題。)することになる。
     優良惑星人は自らを万物の霊長などと慢心することなく、「神の通路」「神の道具」と神の大愛を現象界に発露させる実行者として振る舞うのみである。神の大愛を物理世界なら物理世界で、想念世界なら想念世界でそれ相応の手段を使って実現するのであり、利己、すなわち己の我欲の充足のために、その知能を現象界に反映することはないのである。

     従って、人類は「肉食動物は弱いものを殺して、その肉を食べるし、人間も動物なのだから、殺して肉を食べてもよい」と捉えるのではなく、実は肉食動物が肉を食べるのは人間の精神性を反映して進化が遅れているのであるから、肉食動物がその惑星上に存在する事、またそれらが肉を食べる様子を見て、「生命進化推進者」「進化の船頭」「神の大愛の通路」である人間は挙(こぞ)って自らの精神性の粗野、野蛮さ、未熟さを反省せねばならないのである。
     肉食獣は人類想念の反映した姿なのである。肉食獣の存在とその食餌の行為はその惑星人類の精神性進化のバロメータであったのだ。『関係ねーだろっ!ワケ解んねーこと言ってんぢゃねーよっ!』と言って肉を食すその精神性が肉食獣をいつまでも旧型として存在させてしまうのである。

     するとこう反応するかもしれない。
     『じゃあ、人間の精神性の進化は肉食獣を滅ぼして殺すってことになるぢゃねーかよっ!それって「殺し」だろうがよっ!』と。
     一面的にはそうである。恐竜が地球波動の上昇に耐え切れず旧型として滅んだように滅ぶことになるであろう。しかし、強制的にその命を絶って滅ぼすのとは異なる。

     地球波動上昇による恐竜の滅亡の場合、まず環境の変化から始まった。生命波動による植物の変化がそれを食(は)む草食動物の変化を齎(もたら)し、草食動物の変化が肉食動物の変化を齎した。巨体を滋養する必要がある肉食恐竜は変化について行けずに滅んだのであった。また、波動そのものの変化で草食恐竜も卵を産まなくなったり、卵が孵化しなくなって滅んでしまった。

     波動の上昇により生物としての旧型は、その肉体が生命としての魂の進化に不適格となれば病気や事故で、また寿命を迎えたりして自然の成り行きで死に、その魂は新たな進化型生物として登場した肉体に転生機会を与えられて宿り、新たな地上生存体験を進化型生物の肉体と脳を通じて魂に刻み込み、生命として進化し続けるのである。

     この意味で、人類の精神性進化による想念波動で肉食獣が自然に死に絶えて滅ぶことは破壊ではなく進化推進の一環なのである。その肉食獣の生命は次第に肉食傾向の少ない生物へと転生移行して、久遠の未来にどこかの未開星や不良惑星にて人類として登場し、学びを与えられるのである。
     その頃、現不良惑星人の一部も優良惑星人となって、その「特権」を駆使して一なる創造者の大愛の地上実行者として「弟妹」(ていまい)らの進化促進に奉仕・寄与して宇宙間を飛び回っていることであろう。
     言い換えると、現優良惑星人もかつては不良惑星人であった訳である。肉食は不良惑星人という段階で陥る大きな落とし穴なのである。これも自我を発達させ、我欲に目覚めてしまったことによる不幸である。これを克服して優良惑星人となると、それ以降の優良惑星人として何十万、何百万年の進化の道程に肉食はもはや登場しないのである。
     更に優良惑星人から先の進化においては低次の肉体を必要としないため、肉食どころか食そのものとは無縁の存在になっていく。
     優良惑星では動物でさえ肉食はしない。猛獣、猛禽、猛魚は疎か、毒蛇や毒虫もいない。その理由は『人間が進化したからです。』(シルバーバーチ)の一言に収斂(しゅうれん)する。やはり「想念波動ありき」である。

    『人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。』

     このシリーズを通して述べてきた想念波動とその作用をよく理解し、人類の想念は業想念を通じて、地殻変動始め人災、天災に影響を及ぼす事を知るばかりでなく、人類は愛しき「弟妹」である他の生命の進化促進に、本来は神の大愛の地上実現者として特権を持ち、重責を背負っていることをよく銘肝しなければならない。
     不良惑星人は肉食獣の食餌行為を『吾等人類の想念波動まだまだ清まり足らず』と反省の対象とせねばならないのである。にもかかわらず、肉食獣と一緒になって肉を食べてどうするのか。焼かれた弟妹(ていまい)の肉片が己の身体の中へ落ちて行く様(さま)に心痛まぬか。

     人類や草食獣とは異なり、肉食獣はその魂の発達段階に呼応して、本能として肉食を許されている。その獰猛性を維持させるも、減弱させ進化させるも人類の想念波動次第なのである。人類の精神性が進化すれば、肉食獣の残忍性は薄らぎ、遂には消え去るのである。即ち肉食獣の存在意義は人類の想念波動の清濁判定にも見出すことが出来るのである。
     猛獣、猛禽、猛魚等肉食動物は惑星の波動上昇で一大天譴とアセンションを通じて古い型として淘汰され、また一部の肉食・雑食獣はアセンション時に人類同様遺伝子変容が起こって肉食から草食へと進化することが予定されている。

     本来ならば人類の精神性進化により徐々に肉食獣が姿を消し、一大天譴なしに、緩やかにアセンションを迎えて優良惑星化することが理想であった。
     しかし、現実は地球人類の精神性進化は遅々として進まず、その一側面としての肉食も含めて業想念帯の浄化は疎(おろ)か業想念帯への悪想念の更なる蓄積は進んでいる。
     こうして肉食獣の緩やかな滅びと転生、即ち進化を実現させ得ず、一大天譴という形で彼等を巻き添えにして一気に絶命させる事になる。これこそ彼らに対する慈悲なき殺しであろう。

     殺しといえば、シルバーバーチャンと交流のあるビーガンベジタリアンがこんなメールをくれた。ベジタリアンを非難する書き込みのコピーであった。

     「お前らベジタリアンは、屠殺業や精肉業、乳製品を扱う業者、毛皮、革製品を扱う業者の職を奪おうとしている。畜産業者は失業して中には当然自殺する人も出てくる。お前らのやっていることは人殺しだ。」と非難を受け、どうして次から次へとこうした意味のない非難をする人が後を絶たないのかと胸を痛めていた。

     このベジタリアンに対してシルバーバーチャンはこう答えた。

    ≪確かに全人類が菜食になれば、畜産業者は不要な職業ですから廃業になるしかありません。自動車、電車が発明されて、飛脚や籠かきが居なくなったように・・。また一斉に皆がベジになるわけではありません。なったとしても徐々に、徐々にです。明日から畜産業が全廃になるわけではありません。徐々に職業の転換が図られていきます。

     それに畜産業がなくなるからといってどうして自殺するのでしょうか?牛や豚を殺すことしか能がないわけでもあるまいに。別の仕事を探しなさい。日々是屠殺に励み、何千万の命を奪うという直接殺生をしたのですから、そのぐらいの事は当たり前です。それとも牛や豚の命を軽く見たのと同じように、己の命も軽く見ているのでしょうか?それで牛や豚を引き裂いて殺した機械に自分を掛けて引き裂き自殺でもするというのでしょうか?

     世界は時代の流れに合わせて変化して当然です。刀鍛冶が今の世にどこかの商店街に軒を連ねて営業していますか?ちょんまげを結った侍がどこかの住宅街に住んでいますか?刀鍛冶も侍も籠かきも飛脚も皆、自殺したのでしょうか?電車や自動車を発明した先達は皆殺人者なのでしょうか。毎日通勤・通学にそれらを利用している人々は殺人行為の恩恵を享受しているのでしょうか?違いますね。変化は徐々に起こり、人々もそれに合わせて次第に変わっていくのです。

     あなたを非難したその人は、肉を食べるという自分の欲望を正当化するために、畜産業者を盾にして、彼等の失業=彼等の自殺と短絡させて自分だけの正義を補強しているに過ぎません。

     あなたを非難するこの方がこうして怒るのは、本人が認識できない意識下では「肉食は人間として恥ずべき下卑た低級行為」と解っているからこそ、死肉に群がる自分を賤しく思って惨めになり、一方、無意識から湧き上がる惨めさを打ち消そうと自意識が働き、意識上では反動的にその行為を正当化しようと口角泡を飛ばしてあなたを非難するのです。この方自身にも意識できない罪悪感と劣等感の補償行為なのです。

     しかも畜産業者の自殺を引っ張り出して、彼等を擁護する正義の人であるかの如く振る舞い、他人の陰に隠れてあなたを非難するところに小物の器が露呈しています。本当に肉食に対して鈍感な人は、あなたが何を言おうと非難された気にはならないため、この方のようにあなたを非難しません。つまり、この方にも肉食に対して意識の奥の奥では良心の呵責があるということなのです。お気の毒な方ですから、せめてあなたはこの方を許してやってはいかがでしょうか。≫

     ≪せめてあなたは許してやってはいかが≫と何故シルバーバーチャンが言ったのか。それがこのベジタリアンの方の許しという愛の学習であることもさることながら、この非難した方の末路をシルバーバーチャンは脳裏に見て取ったためである。(そもそもこのベジタリアンの方は、非難した方を責めてはいない。ただ悲しい思いで一杯になったのであった。)

     その末路を描写するのはおぞましいので、以下に本稿の冒頭で紹介した「ペットが死ぬとき・・誰も教えなかった別れの意味」の著者シルビア・バーバネルの言葉で代弁させていただくことにする。

     『道徳的に間違っていることが本当の科学の世界で正当化されるということは、絶対にありえません。人間がこうした身勝手な理屈をでっち上げる原因はいろいろと考えられますが、最大の原因と思われるのは、物的身体という、存在として最も次元の低い媒体に包まれて、その波動から抜け出るのが容易でないということではないでしょうか。
     ですから、いわゆる死という過程を経て物的身体から解放されると、感覚が鋭敏となり理解力が深まって、地上時代の行為の間違いが強烈に意識されるようになります。そこから良心の呵責が始まり、魂の煩悶(はんもん)に苦しむことになります。それがいわゆる「地獄」なのです。』

     「たった一度の、しかもこの程度の非難」で良心の呵責に苦しみつづけると言うのは理不尽である。が、一事が万事である。この者は≪悪のキ≫(=我と欲)を堅持して、何かの切っ掛けさえあればいつでも「戦闘開始」し、他を非難し裁く心根を持しているのである。
     日月神示でいうところの≪悪のキ断ちて下されよ。≫である。日々の暮らしの中に散りばめられた出来事を通じて起こる悪想念ではあるが、この悪想念の制御訓練を一瞬一瞬怠りなく自分の心の動きを監察し続け、気付き、許し、悟り行き、大器の人になって行くことによってしか、≪悪のキ≫(=我と欲)を断つことはできないのである。日々の暮らしの中に起こる「悪」はそのためにどうしても必要なのである。・・・≪悪は悪ならず。悪憎むが悪ぢゃ≫。悪のキ(=我欲)あるが故に「悪」が映るのである。日々の暮らしこそが修行であとする所以である。日々の暮らしが自分発見と反省と進化なのである。≪褌(ふんどし)締めてくだされよ。勇んでやりて下されよ。≫

     「反省」は心を明るくするものであり、心が暗くなるのは「後悔」であるということも心得ておくべきである。悪想念制御に失敗してはまた挑戦し、また失敗しては挑戦して漆塗りのように成長していくのである。同じ失敗でも質が向上して行けばよい。山の頂上へのショートカットはどこにもないが、登って下りて、また登って下りても、意志のベクトルは常に「許しの自分で在れ」、「奉仕の自分で在れ」と、山の頂上に向かっていればよいのである。誰も「完全」など要求していない。「神」は我欲を打ち捨てようと努力する者には、厳しくも底なしに深い大愛を授け続けているのである。皆不完全である、故に許し合わねばならない。≪悪憎むが悪ぢゃ≫

     この非難、攻撃する想念は両の手に確り握り締めた我と欲から惹起されるのであるが、この我と欲も程度による。その程度によって裁かれることになるであろう。誰が裁くのでもない、良心の呵責で自らを裁くことになるのだから≪せめてあなたはこの方を許してやってはいかがでしょうか≫と言っているのである。

     いかなる不良惑星人も一なる創造主の分け御魂、神の子であるが故にその良心は決して消滅することはない。あの悪辣極まりない邪神・邪霊にあってすら良心をその意識の中核に堅持しているのである。邪神・邪例も遥か遥か太古の昔には人間であったことを忘れてはいけない。
    (潜象界も人間界もよく知っている老獪な邪神ほど「改心」すればその転換は物凄く速い。酸いも甘いも噛み分けた老獪さ故に、その永く眠った良心が創造主の波動に共鳴すれば、その大愛に打ち震えて瞬く間に改心するのである。)
     人間は鈍重な肉体を持っている時ですら、良心の呵責というものは頭から離れることはなく苦しいものである。肉体人間ですら良心の呵責に苛まれることがあるのに、鋭敏な感覚となった霊体にとって「自らを裁く空間」で味わう煩悶は筆舌に尽くしがたい。そうなってからでは時既に遅しである。肉体を持っているうちに、一刻も早く、よりはっきりと覚醒していかねばならない。

     日々の暮らしを、その想念波動以て、弟妹への奉仕と為しくれよ。

    本日これまで。

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    シリーズ第12回 『悪あればこそ弥栄する』

     一大天譴とアセンションが目前に迫った現在にあって尚、地球惑星人の神に対する認識は混沌としている。
     程度の酷い者は、「神とは願い事を叶えてくれる存在」「(病気や事故等、自分にとって都合の)悪い事物から護ってくれる存在」として(更に酷い者は神社と仏閣の区別もなく)事ある毎に願掛けをする始末である。
     
     事故も病気も不幸の一切合財の根本原因は自らの悪想念波動の汚濁とその集積にあり、業想念の自己崩壊現象であるにもかかわらず、濁った我欲とそこから放射される悪想念を棚上げしておきながら、自らの想念波動の結果である自分にとって都合の悪い「不幸」だけは避けて通れますようにとは誠に身勝手な話である。

     地球でも心ある者たちの経験則から「人を呪わば穴二つ」【他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき穴は二つ必要になること】というではないか。必ずや己に返ってくるのに平気で悪想念を撒き散らす。その後具現化する業想念の自己崩壊現象である所謂「不幸」は、「理不尽な偶然」であるとして片付けるのが大方の地球惑星人である。病一つとっても、憂いの多い者、心暗く沈む者は肺を病み、人を毛嫌いする者は皮膚病に悩まされ、我の強いものは気管支を痛め、自己保身欲の強い者は心臓を病む傾向が強いなど想念波動により疾患の現れ方も地球惑星人の場合大方決まっていることを知らねばならない。
     想念波動をさて置いて、多くの“常識的”地球惑星人の好む唯物的傾向の生物学でこのことを補完すれば、大脳の動きに想念と病気の関係を見出せよう。
     地球惑星人の脳の構造は「知性の座」と形容される大脳新皮質で捉えた外界の刺激に対して、「感情の座」と呼ばれる大脳辺縁系で快・不快を判断する。このときの判断が不快であれば怒り、妬み、羨み、不平、不満、憎悪、復讐心、焦燥感となる。これらの悪想念、マイナス感情は神経網を通じてより根源的な脳、即ち「生命の座」と言われる脳幹に悪影響を及ぼす。この脳幹は全ての哺乳類には勿論、爬虫類にも両生類にもある、生命活動を司る最重要箇所である。
     人間が大脳新皮質のみを損傷し、この脳幹が機能していれば自立呼吸もするし、心臓も鼓動するが、表面的な意識はない植物状態となる。障害がこの脳幹にまで及び機能しなければ、自立呼吸することは出来ず、人工呼吸器なしには忽ち全脳死、多臓器不全となって肉体の死に至る。この脳幹は間脳、中脳、橋、延髄の4つに大別され、脳幹のうち間脳にある視床や視床下部でホルモンや自律神経制御を主にしているため、これらを通じて全身の細胞制御をする訳である。
     外界から受けた最初の「刺激」を「知性の座」で如何に上手に処理するか、即ち如何にポジティヴな捉え方をするかにより、気付きや反省など学びが生まれ、「感情の座」で不幸に対してまでも許しや感謝や愛念が発せられ、その好影響は脳幹をも極めて潤沢に滋養して、ホルモン制御と自律神経制御の精妙なバランスは絶妙となり、健康を望まずとも約束されるのである。感謝で癌が治った話が巷で聞かれる背景にはこのプロセスが存在するのである。(参考記事:人が病気になる仕組み・・ストレスと脳幹

     解剖学的にはかなり端折ってしまったが、いくら仔細に生物学的、解剖学的解説をしたところで、何故ネガティヴなストレスが脳幹に悪影響を与えるのかは、脳内神経網を駆け巡る電気信号や分子生物学的解析だけでは解明は決して出来ない。どんなに複雑な化学反応式を引っ張り出して説明を試みたところで、どうしてそういう性質があるのかを説明は出来ないのである。もっと判りやすく言うと、水素と酸素で水が出来るのはよいが、どうして「水」なのか、どうして「硫黄」ではないのか、どうして「水銀」ではないのか。行き着くところ「それはそういうものだから」としか言えないのである。そうなるように仕組んであるからとしかいえないのである。ここに波動レベルの話を持ち出しても同じ事である。「この波動に共鳴することにより、物質世界ではナンノカンノ」と言ったことろで、その波動でどうして物質はそう反応するのかと問われれば、その根源がそういう性質を持っているから、そうなるように仕組んであるからとしか言えなのである。
     反対に仮定すると、ネガティヴなストレスで元気になってもいいではないか、ネガティヴなストレスでどんどん健康、どんどん幸せになってもよいではないか。しかし、ネガティヴィなストレスは健康を害し、不幸を招くことは動かし難い事実である。地球人が幾ら奇妙な惑星人だとはいえ、極度に緊張して胃がさわやかに感じる地球人はいまい。怒髪天を衝くほど怒って、さわやかな朝の目覚めや幸福を感じる地球人はいまい。
     なぜ、感謝、許し、朗らかさ、信頼、謙虚、調和などが自律神経的にもホルモン的にもよい傾向を示し、結果的に健康に繋がるのか。なぜ怒り、憎しみ、妬み、抑圧感、焦燥感、怨恨、猜疑心、心配、敵愾心を抱くと病や事故や不幸を呼び込むのか。答えは簡単である。宇宙則では「そう設定されているから」である。物質を支える波動レベルでも「そう設定されているから」である。その具現化した化学的反応がホルモンや自律神経の動きとなって現れているのである。

     「そう設定されている」・・・その宇宙則のこうした一面も優良惑星群では広く愛と呼ぶ。地球でまことしやかな通念となっている愛の概念とは随分異なる大愛が「そう設定」したのであるから仕方ない。

     病気や事故を始め、その他思い通りにならない人生を通じて根本的には悪でない「悪」や「不幸」と呼ばれる経験をする中で、その不幸の原因が実は己の想念波動の在り方、己に内在する野蛮、残忍、非道、自己保身、自己中心などの我欲≪悪のキ≫にあることに気付き、また自ら蒔いた種が実った不幸経験を通じて、気付いて反省し、これらを克服して行くことで初めて幸福とは何かが解るのである。

     難しく考える必要はない。話を単純に、かつ縮図化して喩えれば、幼少時から成人するまで貧乏を味わったことのないどこぞの御曹司には自分の置かれた経済環境を裕福であると、頭ではわかっているが本当には判らないのと同じである。また、裕福でないことが場合によっては幸福であるなどとは夢想だにしない。健康人に病人の気持ちがわからず、健康であることの幸せが頭ではわかっているが実感を伴っては解らぬのと同じである。晴眼者には盲人の世界が解らず、目が見えることの幸せが頭ではわかっているが駆け、踊るほどの喜びをもっては解らぬのと同じである。五体が満足に揃っている者には下肢、上肢に不具合ある者の不自由が解らず、何の苦もなく歩けることの幸せ、物を掴み、操れる幸せが頭ではわかっているが、自らの足が大地を踏みしめる時の砂利の音に嬉々として感謝を捧げる程には解らぬのと同じである。

     反対に言えば、己に起こる「悪」や「不幸」など汚れた経験をして学んだからこそ、昔は己もそうであったと、現在汚れある者を許せるのである。子供がゴミをポイ捨てするのと同じ事を大人がする時、他の大人達は軽蔑と怒りをもって非難するであろう。しかし、これを子供がする時、大人は本気で軽蔑し怒るであろうか。「怒るのではなく叱る」であろう。子供は社会のルールに対しても未熟であることを前提としていて、教えてやらねばという「愛があるから叱る」のである。決して心底の軽蔑も怒りもない。社会のルールを知らなければやりかねない事を自らの過去の経験を通じて大人は知っているからである。
     自分自身が汚れたことがあるから、汚れているものを許して叱って愛することが出来るのである。今生で他人の失敗や罪や悪意にまでも大変に寛容な器の持ち主は、過去世において同じように失敗もし、罪も犯し、悪意を持って他人を攻撃したり、殺したこともあるはずである。そしてそれらの行いの根っこにある己の我と欲を正す機会を被害者となったり、責められる立場になったり、殺されたりする苦痛体験という形で反省の機会を転生する度に与えられ、転生ごとにその課題をこなし、心を正して大器の人(魂)となって今生を生きているのである。こうした大器の者においても、一足飛びに今があるのではない。優良惑星人とて同じである。己に起こる「悪」や「不幸」はどうしても、どうしても必要なのである。なぜならそれらも神の働きの現れであり、愛の一表現だからである。
    ≪まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。よく見分けなならんぞ。悪の顔した神あるぞ≫
     すなわち一見悪なる「悪」や一見不幸なる「不幸」も愛であり神なのである。このフレーズに違和感を感じるならば、その惑星人は未だ、神を己(の我欲)にとって都合のよい「小間使い」「御用聞き」に位置づけており、神に頼ろうとしている。神は頼るものではない。神頼みするものではないのである。

     感謝や打算のない奉仕する麗しい心で暮らすとき、幸は求めずともやって来る事実が、神が永遠の至福を与えようとすることを目的としているという何よりの証拠である。この感謝や打算のない奉仕の心を知るための「悪」ではないか。そのための「不幸」ではないか。ひとつの魂の永い長い進化の道程から見れば、これら「悪」も「不幸」も皆一時的なものなのである。根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。神は愛そのものであり、愛は神そのものである。また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。(このことはいずれ『神々の正体』として詳述する。)

     絶対悪は宇宙には本来存在せず、すべてが相対的悪である。しかし、相対悪といえども現象界では悪は悪。それを正さねばならない。それを正そうと覚醒していく者ほど苦心し、苦心する過程で様々な魂の学び、即ち愛の学びを得るのである。したがって、「悪」は咎め、責めるものではない。勧善懲悪の短絡思考を好むのは邪神の囁きである。「悪」は許して正して変容させるものである。
    ≪悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。≫
     また、その悪を己の映し鏡として、そこに映った己の心の欠けたところ、未熟さを正すことが不良惑星人の本分である。「悪」を許せざる憎む心が悪なのである。しかし、その憎しみという悪想念が原因で引き起こされ己に降りかかる不幸など何らかの痛い目にあって、魂が学習していく過程で憎む心を克服するとき、この憎む心の悪も悪ではなくなるのである。いかなる悪も最終的には悪の仮面を脱ぐ時が来るように宇宙の進化は大愛に近づくことを目指し方向付けられているのである。その期間が三次元地球地上の時間感覚でいう数百年なのか、数千年なのか、数万年を要するのかはその魂次第である。矯正の機会は転生の度に、そして日常生活の事象の中に常に与えられているが、それに気づくか気づかぬか、そして正して行くか行かぬかはその魂次第なのである。
    ≪善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方≫であるが、この善悪を超越して正しき想念を維持せねばならない。現象的悪に心揺らぎ、心奪われてはならない。その現象にいちいち反応して悪想念を発することをまず制御せねばならないのである。

     「いずれ、そのうち」と言いながら、現存地球人類は太古に滅んだ文明時代から同じことを懲りずに、転生を繰り返してきた。地球(ここ)に降ろされてから何万年が経過したことであろうか。優良惑星へと昇格する地球には我と欲を握り締めたままでは残れない。自らの責任で落第してしまった魂は、転生先でまた貨幣経済様システムに縛られ、憎しみ、互いに疑い、嫉妬して、警戒し合い、奪い、傷つけ、怒り、殺し、追われ、焦り、嘆き、病に苦しみ、世を果敢無(はかな)み、生きる目的も定まらず苦悩し・・・・・止め処もなく繰り返される不幸の波に木の葉のようにもまれて生まれ変わり、死に変わり、またも負のスパイラルダウンへ飲み込まれる転生を繰り返さねばならなくなる。

     こうして「悪」は宇宙がどれだけ進化しても、常にどこかに存在する不良惑星では永遠になくならない。「悪」は進化のために必要だからである。
    ≪悪あればこそ向上するのであるぞ。 悔い改め得て弥栄するのであるぞ。≫

     今回のアセンションで地球が優良惑星に昇格する時、悪の元である我欲を内包した惑星人は残しておけない。我欲を捨てきれない者は他の不良惑星でやり直さざるを得ない。そこではまだ「悪」が必要だから、そこでなら不良惑星人級の魂でも存在することは許されるのである。

     参考までに言うと、地球は不良惑星であるが、宇宙間にはもっと遅れた惑星もある。唯物科学文明的にも現在の地球よりも遅れた文明を築き、現今の地球人から見てもお粗末至極な文明なのだが、その惑星人たちはそれなりに自らを文明的であるとして、その奢り高ぶりは著しい。さらに、その惑星人類の想念のレベル、即ち愛のレベルは地球人よりずっとずっと低く、殺人して物を奪っても殆ど自責の念を抱かない惑星人がゴロゴロしているような惑星である。地球の警察に相当するような組織も殆ど機能していないし、何か盗難に合うと、その被害者は直ぐに別の者を襲って、別の盗難をしたりするなど日常茶飯事である。惑星全体がこうした犯罪意識の薄い社会もまだこの宇宙間には多く存在しているのである。地球で人間の作った法により裁かれた悪人と呼ばれる人間でも、その惑星に一ヶ月も住めばれば気が変になる次元である。(人間を襲って食べる獣類も存在していてよく子供が襲われていなくなる。地球の熊に似た生物だが、地球の爬虫類のような進化を遂げてきた生物のため、熊のように体毛はない。)ここまで劣悪な惑星となると優良惑星人もその飛行船でデモをしたり、姿をみせたりという啓蒙活動はしていない。啓蒙活動に関しては、その不良惑星人がまだ宇宙をよく知らず、知らぬがゆえに万物の霊長と勘違いして思い上がり、動物はおろか人間同士でも弱者を踏みにじりながらも、自らを文明的惑星人であると大いに錯覚している寝ぼけた眼を開くため、当該惑星外にも知的生命体が存在していることを知らしめることが活動目的の一つである。子供を叱る大人のように直接的には活動できないが、その理由は力による干渉は愛という宇宙則により許されていないからである。『促して「自ら」目覚めさせよ。』、これがルールなのである。シルバーバーチャンが『「自ら」気付くこと』というフレーズをよく使うのもこのためである。この惑星に関しては、レベルが低すぎて文字通り取り付く島もないため、観察対象ではあるが啓蒙対象にまでは未だなっていない。

     さて、これらの未開惑星に近い不良惑星に比べれば地球は不良惑星といえども、自らが原因である幾多の苦痛体験を通じ、地球惑星の歴史とともに人類総体としてその魂を進化させてきているのである。が、それでも地球は未だ未だ不良惑星であることには変わりはない。覚醒に近いところに居る心ある者は率先してもっと多くを学び、時間のある限り、更に更に前進せねばならないのである。

     その地球には「勝者の理論」という言葉がある。このシリーズの過去の記事で述べてきたように地球惑星では文明が興っては滅び、また興っては滅んで、現存文明に至っている。いずれの文明においても、その歴史は戦争と略奪に彩られ、現存文明も含め、いずれの文明に住した人類も各国家や地域の利害が対立する以上、時には衝突は止むを得ず、闘争は当然の事としてきたのである。
     現存地球文明においても、人類は口に愛と反戦を唱えながら、この地球地上で戦争、闘争、紛争が一時なりとも絶えたことはない。今この瞬間にも人類の兄弟姉妹がどこかで奪い合い、殺し合いをしているのである。地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。この誤った思い込みとその思い込みの上に平気で発する闘争、競争の排他的想念に、これらが昂じて憎しみ、恨み、怒り、僻(ひが)み、羨(うらや)み等々悪想念のオンパレードが続く限り、いくら口に愛だ平和だと唱えても、愛の欠片(かけら)も平和の兆しも何一つ実現はしない道理である。言葉だけが空回りすることは歴史が既に証明していよう。

     栄える者はいつか滅ぶのが当然と思ってはいまいか。真に正しき者は栄えて当然であるが、真に正しき者ならば栄えれば滅ぶ事はないのも当然である。栄えた者が滅ぶのは、真に正しき者が栄えたのではないからである。真に正しきものとは愛を基準にして正邪・真偽を判断せねばならないのであるが、地球惑星ではこの善悪・正邪・真偽が混沌として未だ定まってはいない。
     「悪」も「不幸」も進化のために必要であるけれども、正して、学んでこその進化であり、「悪」も「不幸」もそれを放置してよいわけではない。その「悪」に己の姿を観て、「不幸」に己の至らなさを観て、心を正すこと、即ち我欲を手放していく事が肝腎なのである。
     地球人類は須らく愛を基準として善悪・正邪・真偽を判断せねばならない。これが何ものも縛らず、また何ものにも縛られない全宇宙を貫く鉄壁の法である。この愛に反するとき、全ては悪であり、邪であり、偽なのである。「さもありなん」と大方の地球惑星人は頷(うなづ)くに違いない。然るに、この愛という僅か一文字を体得するのは不良惑星人にとって決して容易な事ではない。地球が不良惑星に属している現実こそ、その動かぬ証拠である。

     愛を体得した優良惑星では各優良惑星人の愛の度量は各人各様では在るが、いずれも不義、欺瞞、搾取なく、人を縛る法律、条令等制約はなく、所有概念もなく、軍隊は疎(おろ)か、いかなる防衛組織もなく、同朋を裁き、取り締まる機関もなく、勝ち負けを見て楽しもうとする惑星人はいないため、いかなる競技も競技施設もなく競争もない。惑星人は相互信頼のもと、心を開き自他一体と利他心で暮らしている為、境界もなく、許認可等諸制度も必要なく、他を傷つけ奪う惑星人は存在しないため、警察もなければ当然裁判所もない。よって、多くの優良惑星では人名を登録して戸籍を管理する必要はなく、名前をもっていない惑星人が殆どである。その奉仕や活動の内容や働きに応じて名をつけたり、その惑星人がその時点で持つ属性を表わすために愛称を用いる事はあるが、地球人や他の不良惑星人のように支配と管理と相互不信からもたらされる防衛のため登録、登記するなどと言うことはあり得ないのである。(シルバーバーチャンなど地球人の認識のため仮につけた名称であり、本来どうでもよい名前である。)
     また、先回の記事(第11回)で述べたように、その惑星・遊星の人類の想念波動は、動物など他の種族の進化に対して特権と責任を有し「進化の船頭」として、他の生命の進化を左右するため、優良惑星人の肉食は勿論絶対になく、動物界においても、いかなる弱肉強食の様相も見ることは出来ない。他を捕食する猛獣・猛禽とこれに類する生物は存在できないからである。

     地球を‘常識的’‘標準的’‘先進的’‘文明的’惑星と思い込んでいる閉ざされた惑星人・地球人には優良惑星の生活は、将におとぎの国か頭脳の弱いメルヘンチックな単なる平和主義者が思い描いた絵空事のように映るはずである。それを否定までしなくとも、精々「そんな世界が在ったらいいよね。」とつぶやく惑星人が殆(ほとん)どである。「在ったら」という表現自体諦めと絶望の念の現れである。その絶望の念は絶望を引き寄せるのである。(自ら絶望を引き寄せる惑星人には優良惑星人も手を差し伸べることは出来ない。その絶望は大難を大難のままにして一大天譴はより一層激しいものとしてしまうし、暗躍する邪神の思う壺となり、いつ大きく傾くか知れない全面核大戦の可能性から遠ざかることを困難にしていく。一大天譴は避けられない必要な「大洗濯」であるが、全面核大戦だけは何としても回避せねばならないのである。【第7回 『アセンションを阻むもの』で述べた核の炸裂の波動で地軸を傾けて砕け散った第五番惑星の轍を絶対に踏んではならない。】)地球惑星人には俄(にわか)かには信じ難いことであろうが、この銀河系だけでも、どの不良惑星も唯物科学の行き着く共通点として手に入れる核の力とその誤用で地軸を傾け流星化、小惑星化する惑星・遊星が地球時間の一年にして、1,000星前後にも上るのである。勿論、この数は銀河系内の惑星・遊星の総数においては僅かな数字だが、そこで失われる生命進化上の犠牲は膨大な数に及ぶ。地球惑星の場合63億人の人類に加え、その数万倍の各意識段階にある肉体生命種とその実数分の命が犠牲になる。このような最悪の事態に至った場合、他の数え切れぬ種族に対して、愛無き人類はその愚行を一体どうやって償うつもりか。地球と太陽系が属する銀河系のような島宇宙が宇宙間には無数にあり、それぞれの島宇宙内で惑星爆発等により膨大な進化の遅滞がもたらされているのである。地球もアセンションを目前にまで迎えながら、そこへたどり着けず、「最悪の事態」を迎える危険は未だ去ってはいない。)

     我と利己欲を完全制御した優良惑星人の桃源郷のような暮らしの一方、不良惑星の中では比較的上位に位置する地球の場合でも、愛を基準とした正邪・真偽は未だ定まっていないため、優良惑星とはほぼ正反対といってよい自由度の大変低い世界・社会が展開している。地球惑星人が当たり前の行為、考え方として受け入れていることがどれだけ宇宙則、即ち愛に逆らうことかも解らず、日々平気でこれを犯しつづけている。
     地球惑星人は、目先の利害得失に心奪われ、過去を後悔して思い出しては憎しみや恨みの念を発し、未来を思っては、ありもしない不安、心配に苛(さいな)まれ、国も地域社会も団体も個人も隣人に対して傷つけられまい、騙されまい、やられまい、取られまいと相互不信故に互いに身構えて暮らしているのである。
     宇宙間には優良惑星群のような生活があるというのに、この戦々恐々と互いに身構えて暮らす不良惑星を標準であるとしている。いかなる惑星も衛星も遊星もそこに住する惑星人一人一人の想念の総体とその惑星の定められた進化上の波動上昇との総和によって、その惑星も惑星に住するあらゆる生命の命運が決定されていくのである。
     よって不良惑星に天災地変、事故災害、戦争闘争、叩いても叩いても新手が襲い来る病気などありとあらゆる不幸の原因は個々人が両の手にしっかり握り締めて離さない我と欲なる心根、すなわち愛の度量の小ささにある。
     邪神・邪霊が幾ら屯(たむろ)って、暗躍しようとも、地球人の精神性が同調せねば彼等には何の力もない。
    ≪悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫
     しかし、現実は地球人類の自己主張甚だしく各々の利害が一致することはなく、底なしの欲望に自らの身を焼く粗い波動に邪神・邪霊はみるみる力を得てこの地球を永年にわたって支配してきた。それら邪神の傀儡となった肉体人間達により構築された「勝者の理論」がこの地球惑星の不幸に拍車をかけてきたのである。

     繰り返して言うが、地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。戦争であれ闘争であれ、互いに相手を尊重できないところにどうして愛があるというのか。戦争も闘争も愛無き行為という意味でまったく同列のものである。
     争いの単位が国、社会、集団、個人の違いであるというだけである。この根本原因のひとつは、とくに自由主義先進諸国において、その教育の根幹に自己主張を正しいことのように教え込むことがある。自己主張は我欲の集約であり、争いごとの根本である。
     自己主張がぶつかり合い、互いに利害が対立するのを収拾するため、各国家ごとに法律を制定して、各国家の秩序を守ることができるかのごとく装ってはいるが、現実は法を厳しくすればする程、各種の犯罪も内乱もその解釈の混乱も増えこそすれ減ることは無いのが現状である。
     優良惑星にはいかなる法も存在しないが、地球の、特に刑法というのは最も低級な法である。地球社会の犯罪が起こる場合は様々あるが、社会の諸悪自体に犯罪の動機を誘発する素地を有している上に、その社会に住む一人一人の我欲に端を発し、我欲の集積が噴出するところが犯罪の発生するところなのであるにもかかわらず、事の結果のみを裁く盲目的制裁でしかなく、犯罪の起こる原因を取り除こうとはしない低劣な制裁制度なのである。

     結局のところ、地球惑星人は善悪を超越した正しさを解明、理解する能力が乏しいか全く無いため、一部の勝者の理論やずる賢い巨悪に媚びへつらった、権力に都合のよい道徳、学問、宗教、科学をもたらして、その上に生活の為と称する生存競争、闘争、制裁をあって当然のこととして、いつしかこの狂気に疑念も抱かず、不調和と破壊の大行進を続けているのである。
     地球の勝者の理論とは知力、財力、武力を背景にした強者の自己保身の理論である。そこに共生の概念はない。地上にかつて存在したアトランティス等太古の文明から現存文明に至るまで、いずれの文明においてもこの勝者の理論は正義の仮面をかぶり、その美名に隠れ、「勝者の理論で取り決めした善悪」で弱者を蹂躙して(じゅうりん:踏みにじって)、都合よく裁いてきたのである。
     弱者は生き延びるために、勝者の理論に従い更に弱い者へと矛先を向け、搾取と支配を蔓延させてきた。
     不良惑星では、知力、財力、武力をより多く有するものが勝者として君臨し、法を定め、文化を操り、学問も捻じ曲げ、宗教で煙に巻き、国によって異なる道徳で偽善を続けてきたのである。(道徳は国や地方によって異なり、真理の足元にも及ばないばかりか、その時代、時代の為政者の都合に合わせていいように書き換えられてきた。)この背後にはその強者の我欲に付け入った邪神・邪霊が暗躍してきた事は言うまでもない。こうした勝者の理論によって弱者を踏み台にした繁栄は、愛の度量とは全く無関係である。故に愛に立脚していない覇者は早晩滅びることになるのである。地球波動の高まりにより、この覇道を以ってのさばった巨悪は今後加速して白日の下にその欺瞞と秘密を晒されることになる。(それに伴い世は騒然となるが、心を動揺させてはならない。これらは一大天譴の序曲である。この程度でオロオロして、悪想念を発して、ひっくり返っていては神の御用は勤まらない。)

     今や財力を手にする者が囃(はや)し立てられ、喝采を浴びるのは嘗て滅びた文明末期の特徴と酷似している。財力を手にして勝者となった者にへつらい、その財に群がり囃子立てる「蟻」も愛無き勝者に同じである。いずれの文明も武力による土地争奪・所有の時代とその土地由来の食料の確保に始まり、土地所有に勝ち残った国、集団、個人が爛熟した貨幣経済を背景に影響力を持つ。この財の争奪戦に知力のある者が加わり、より小手先の欺瞞で富を一部の強者へと集中させて行く。国際舞台では、より立場の弱い国々から原料、食料、人的資源まで搾り取り、国内では官僚はその人民から過剰な税を取り立てるようセンセイを操り、建前と偽善で無駄遣いし、大規模法人集団はより小規模な法人から買い叩いて暴利を貪る。国家も大企業も個人資産家も、直接間接を問わず、いわゆる「下請けいじめ」「弱いものいじめ」の上に成り立つ「成功」「繁栄」を手にしているに過ぎないにもかかわらず、仮初の成功の美酒に酔いしれ、自尊心を抱えて下請けに横柄な態度で無理難題を押し付ける。

     こうして「下請けいじめ」で付けた強い競争力で、外国を相手に稼いだ外貨の見返りに、外国から食糧輸入で農畜産物を大量に買っているのである。このことで国内の食料自給率は一向に向上しては行かないのである。そして下請けいじめをして成り立っている大企業群は食料自給率の低さには「我関せず」を決め込む。企業として、また人間としての低劣さ、低級さで弱者を踏みにじって築いた繁栄は砂上の楼閣である。「トドメ」の波で砂上の楼閣は傾き崩れ、洗い流されていくであろう。
     こうして大企業が鎬を削る先進諸国に暮らす殆どの者は、財の力により世界中から食料をかき集め、その結果食べ切れずに捨て、有り余る贅沢な食事を当たり前のものとしている。この財をもった強者の理論により、自ら作った農作物でありながら自らの腹には落ちない貧しい国々の人民は、日々の食事もままならず、その子供等から先に骨と皮だけになって飢え死にしていくのである。利他愛から懸け離れたこの勝者の理論は愛に反する故に滅びへと向かう他はないのである。このような非道は優良惑星にはありえない図式である。全人類に行き渡るだけの食料は用意してあるにもかかわらず、勝者の理論で自己保身を図る国、企業、個々人により不平等極まりない愛無き「弱者切り捨て」が罷り通る地球惑星がこのままでは弥栄するはずもない。そのトドメが一大天譴なのである。

     昨今何かと取り沙汰される「戦争犯罪人」にも、戦勝国の勝者の理論によって戦争犯罪人に仕立て上げられ、陸(ろく)に裁判もせず裁かれ処刑されてしまったのである。戦争の勝敗の立場が逆であった場合、処刑した者共が処刑される立場に回るのである。一体何を以って戦争犯罪としているのか。地球の勝者とは、この程度の愛無き自己保身の理論を正義の名の下に振りかざす低劣極まりない者共のことをいうのである。
     このように地球の勝者の理論とは愛を基準にした宇宙則に適うものではなく、自己保身のために他の犠牲を強いる狡猾な理論である。宇宙則、天則に反した理論で他を裁いた者共はいずれ天則によりその者共の罪状に応分の裁きが下るであろう。
     今生、冤罪(えんざい:無実の罪に裁かれること)で投獄され檻の中で号泣する者、いわれ無き被害に遇って激憤して泣き喚(わめ)く者、陥(おとしい)れられて困窮する者など、前々の世で人を裁き陥れた宿業を抱えて転生した者が多い。規模、程度の差こそあれ日々同類の罪を積上げつつある者はその罪業に応じて、身をもって償うことで魂のバランスを取らねばならない。逃れることは決してできない。何故なら愛は峻厳だからである。
     こうして裁き裁かれ、殺し殺され、騙し騙され、欺き欺かれ、責め責められの負の連鎖は流転して因果は巡り続ける。負のスパイラル(螺旋)ダウンである。
     日本国には「因縁相成就」という言葉がある。「因」とは物事の直接的原因、「縁」とは間接的条件のことである。仮令(たとえ)今生で裁かれるような「因」が過去世または今生の過去にあっても、これに「縁」を与えなければ宿業の結果は現れてこないのである。この「縁」の働きをする悪想念の制御は広くはまだ知られていないか、知られていても軽んじられているため、もしくは惑星人が頑迷固陋であるため、「わかっちゃいるが憎いものは憎いし、腹の立つことには腹が立つ」と言って悪想念を出し放題に出し、我を折らず、利己の欲心を放縦しているため、それは抱えている「因」に「縁」を進んで与えているようなものなのである。これでは宿業は「相成就」するのも止むを得ない。

     この巡る負の因果に終止符を打つ方法は万人の悪想念制御以外にない。地球は人類が想像している以上に極めて危険な状態である。そして残された時間は本当に、本当に僅かである。

    ≪善と悪と二道かけてならんぞ。理は一本と申してあらう。悪は悪として御役あるぞ。 悪と偽りの中に悪の喜びあるぞ。善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないぞ。
    喜びないもの亡びるのざ。御役の悪とは悪と偽りの悪であるぞ。悪と善との二道かけての 悪でないぞ。心せよ。悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。善に向つて働いても、 善はビクともせんのぢや。ビクつくのは、悪に引込まれるのは、己に悪あるからぞ。 合せ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凸凹なくなれぱ 悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。 悔い改め得て弥栄するのであるぞ。≫
    ≪少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組≫
    ≪人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交り合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ≫

    本日これまで。

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    シリーズ第13回 『神々の正体(その1)』

     先回(第12回)では冒頭に『地球惑星人の神に対する認識は混沌としている』として少しだけ今回の主題に言及した。
     また、『根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。神は愛そのものであり、愛は神そのものである。また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。』として後に『神々の正体』と題して詳述するとも記した。

     神、神々といえば地球惑星人の場合、直ちに宗教と関連付けるのが常套である。地球惑星人は宗教と言うフィルターを通してしか神を見ていない場合が殆どである。世間一般で神の名を口にすれば「何かの宗教ですか?」と聞かれるではないか。

     少し考えれば解ることだが、宇宙に話を広げるまでもなく、地球惑星一つとっても、その運行やそこに棲息する生物・生命の進化の促進やその下地となるあらゆる諸法則は人類が宗教を作り出す遥か以前から厳として存在していたのであり、大小新旧各宗教が誕生し、各宗教の神などを定義して、大伽藍や大聖堂など建立せずとも、諸法則に従いながら、惑星は運行され、そこに棲息する生物・生命も進化を続けてきたのである。宗教と神は本来全く無関係であり、宗教は所詮不良惑星人の作ったモノに過ぎない。神は人間の作り上げた宗教ごときに規定されるような矮小な存在ではない。故に宇宙の諸法則に合致して生きる優良惑星人の住む各惑星・遊星には宗教は不要につき存在しない訳である。

     宗教などなくても、神は全宇宙に偏在し、三次元の物理法則も、四次元が関わる精神の法則も、いかなる次元をも貫く波動の諸法則も経綸下に治める根源的存在なのである。地球人が漠然とでも想起する人の形をしたような存在であったり、どこかある一点にぼんやりとまたはベールのように存在しているようなことは有り得ないのは言うまでもないが、精神体のように次元を限定して在るような存在でもない。

     神はいかなる次元においても「現れ」や「働き」としてしか見えないのであり、三次元の存在には精々感じることしか出来ない存在である。また、その「現れ」は神の働きであり神そのものではない。

     卑近な例で敢えて喩えれば、鳥が空を飛ぶその力が神の「働き」である。石が水中に沈む重力が神の「働き」である。石が石であること自体も神の「働き」である。水が水素と酸素で水たることも神の「働き」であり、雨として降るのも神の「働き」である。が、これらは神の「働き」であり、神そのものではない。神とは叡智そのものであり、愛そのものである。叡智と愛は神そのものである。神の「働き」を通じで神を見出ださねばならない。

     例えとして雨を挙げれば、雨として植物はじめ大地の諸々のものを育む性質が雨、水に備わっていることが叡智であり愛なのであり、「現れ」としての雨そのものやその「働き」自体は神ではない。三次元の物理現象としての雨はあくまで現象であり、神の働きとしての現れであるが、(物質世界から見れば)雨には叡智と愛が属性として備わっているように見え、(本来的実相は)叡智と愛に水という属性が備わっているのである。雨水のみならず、全て、全てにおいて、叡智と愛はいかなる形にもなって現れるのである。

     全ては愛と叡智から発せられた波動が具現化して、それぞれの次元にてそれぞれの実質となって現れる。その現れ方を規定するのが各次元を構成する様式である各次元の諸法則である。三次元の現象界になら(物理法則が様式の一つとして有り)物質として、四次元の霊界なら霊質として、愛と叡智を内包したまま(まず波動の形を取り)その次元、世界として具現化しているのである。

     愛と叡智が様々に変化して万物として現れ、万物はその根源を愛と叡智として同じくするが故に「全てはひとつながり」と表現されるのである。このような意味においては、岩は雲であり、雲は土であり、土は列車であり、列車は硫酸であり、硫酸はヒマワリである。愛と叡智が諸法則を通して、岩にも水にも雲にも金属にも化学物質にも細胞にもなって現れているのである。愛と叡智が波動として、次元を問わず宇宙間に充満し、各次元の諸法則を通じて、三次元なら時間と空間という現われの中に物質も現れる。物質のひとつである「生物」に乗った愛と叡智の分け御魂である「生命」は「生物」という生存体験と幾多の転生経験を通じ、根源的愛と叡智へ近づく進化を繰り返すのである。

     このシリーズの過去の記事(第3回『想念作用(その2)』)で、実在とは愛と叡智である根源神の御存在とその分け御霊である生命(生物ではない)のみであり、如何なる次元も世界もホログラフィックな現象界(現われ)であると既に記したとおりである。愛と叡智はいかようにも変化(へぐ)るのである。
     また、人類の無知蒙昧とその暴挙で、生命と愛に反する間違った行為をすれば、例えば雨は時に酸性雨として、集中豪雨として、洪水として「悪」の働きをも演ずる。が、先回(シリーズ第12回)の主題とした『悪あればこそ弥栄する』に既述した通り、「悪」として現れることも出来る愛であり叡智なのである。

     不良惑星人は神を「悟る」ことは至難の業であるため、「悟」ではなく、「知」を以って地球惑星人に噛み砕いて喩えて、ある惑星人が夢を見ているとする。その夢の中の要素は波動であれ、法則であれ、物質であれ、霊質であれ、全てその惑星人の想念が夢という形で作り出した世界であるとする。夢の主が想念して生み出した世界の中に存在する住人が、その世界の中に夢の主の姿をどんなに求めて探そうとも、その姿は決して見つけることは出来ない道理である。夢の主の姿は見えねど、その想念するところを「現れ」を通じて感じ取った住人は、そこに夢の主の想念の「働き」を知り、その「働き」の意義を見出し、かつ体得した時、夢の主の大いなる愛念を悟り行く事ができるのであり、これが正道である。

     その悟り行く過程で我と欲という己の心に内包する悪の気を克服して行くのである。その克服の過程に「悪」となって具現化し、その者が我と欲を堅持している愚かさを知らしめるのである。この悪の気を断つ道程である自分発見は、心をえぐる衝撃的で実に辛い作業である。己のエゴを目の当たりにし、己の心の汚濁の程度に愕然として初めて謙虚さを学ぶのである。高まるほどに「我こそは」という思いは最早、鳴りをひそめ、そうして謙虚さを学んだ者は自ずと他を許す寛容の心が拡大して行く。許しは愛の表出の一表現であり、神の大愛へと近づく進化である。≪悪は悪ならず。悪憎むが悪ぢゃ≫

     しかし、その夢の中で、「物知り顔をした物知らず」の「我こそは」が宗教などという欺瞞のシステムで「夢の主」を我田引水なる教義の枠にはめ込み規定して神と呼び、この「神」を利用して己の自己保身と我欲の充足を計るその姿を見るにつけ、またその行く末を思うと哀れである。また、理念発動させ得ずして、これを鵜呑みにし、欲心を満足させ得る時のみ有難がって御利益を求める衆人の姿も哀れで、時に滑稽ですらある。

     以上は相当に乱暴な例えではあるが、神とは優良惑星人は勿論、相当に進化した高次元神霊ですら、計り知れない全宇宙を経綸する根源的存在なのである。また、いかなる高次元の御神霊といえども、全てはこの根源神の経綸下に存在するのであり、根源神を越えることはできないのは言うまでもない。先の「夢の主」の例で言えば、いかなる高次の存在も夢の主の「想念のスープ」の中の存在なのである。この根源的な神を絶対神、創造主、創造神、宇宙創造神と、その御働きを冠して称慕申し上げているのである。日月神示では≪元の元の元の神≫と表現することもある。

     この根源的神の大想念世界の中の存在として、各次元に、また複数次元を超越して様々な進化段階にある「宇宙の神々」と仮に呼び申し上げる御神霊が在らせられるのである。以下三次元宇宙空間に住する優良惑星人まで下ってくるのである。

     この様子はシリーズ第9回に「さて、こうした生命進化の・・・」で始まる第4段落目に示したとおりである。が、こうした分類は地球惑星人の理解のための便宜上の区分であることを念を押しておく次第である。このシリーズの第1回記事から神として表現してきた存在は、この根源的神であり、時に高次元の御神霊のことをいう。

     では、地球惑星人が神、神々として、宗教というフィルターを通して見ているものは一体何なのか。これを仮に「宗教の神々」とか「地球の神々」と呼び、宇宙一切の根源神であらせられる創造神へと繋がる高次元の神々を「宇宙の神々」と仮に呼ぶことにして先に進むこととする。

     本シリーズ第1回から一貫して、「宇宙一切創造主の律動であり、想念波動とその作用に対する理解と惑星人ひとり一人の悪想念波動の制御が地球惑星の命運を決め、一大天譴は必要あって避けて通ることはできないが、地球惑星の優良惑星群参入までの道のりを大難とするか小難とするか、はたまた負の勢力に弄ばれて惑星地球の小惑星化、流星化へと引き込まれ、三次元宇宙の塵と成り果てる大罪を犯すか、一にかかって地球惑星人の想念波動次第である」と述べてきた。地球惑星人の肉食によって、否応無く無慈悲に大量に屠殺された動物らの怨恨、憤怒と悲哀の念が地球惑星の業想念の総体を汚濁し許容の限界を超えつつある旨も述べた。また、宇宙の神々から優良惑星人まで、有形無形の存在が人類を(またその魂を)一人でも多く救済へと自ら向かわせるべく尽力していることも述べてきた。

     この想念波動と作用を覆い隠し、暗躍してきた者こそ、「シリーズ第9回 『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」において、その発生から実体まで詳述した邪なる勢力である。破壊的想念を抱き、否定的負の想念波動を「糧」とする生命進化のサイクルに逆行する勢力である。この邪神共が想念波動とその作用を隠蔽するのに最も功を奏した手段が宗教であった。

     どの宗教も道徳も善を勧めて、悪を行ってはいけないと訴える事は決して悪いことではない。しかし、想念波動の作用を説かずに善を勧める時、何が起こるか邪神らはよく知っている。即ち宗教信者のみならず、一般の地球惑星人は人々に善であることを望むものの、実際に善を行わない人々を見て、咎め、怒りの心を起こして非難するなど排他的想念を放射するのである。また、悪を行う者を見て、憎しみ、咎め、果ては「殺してしまえ」と攻撃的、排他的想念、他を否定する想念を放射するのである。勧善懲悪を強く推進しようとするほどに、これらの悪想念を起こす衆人が多く出る結果を生むのである。「まず波動在りき」とシリーズを通じて述べてきた理由は偏(ひとえ)にここにある。

     本シリーズではないが、スピリチュアルページの「ベジ&スピリチュアル雑記帳」の中に『正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)を記した狙いは、同朋である動物達に溢れる慈愛の心を向けられる発達段階に既に達したベジタリアンらが、動物達を愛するが余りに、その「愛が執着へと変容」し、「正義の心が驕(おご)りへと変容」し、想念波動世界では取り返しのつかぬ罪を築き上げ兼ねない危険性を訴えることにあったのである。
     善を望み、善に憧れ、善を勧め、悪を否定しようとするほどに却(かえ)って破壊の原因である悪想念を累積するとは、これ程愚かで哀しい事はないのである。

     この無明に人類を導いたのが邪神・邪霊とその傀儡となって操作された肉体人間達であり、宗教や道徳を利用し、如何にも善を世に勧めるかのごとく装って、実は想念波動、念波、霊波の作用を隠蔽して却って悪を行わせてきたのである。「愛と正義と善を強力に勧め、人類を救済する為に組織された団体が宗教団体」。この文言の背後のどこに底知れぬ罠が大きな口をポッカリ空けて善男善女を待ち構えているのか、何も知らぬ者にはとんと見当もつかぬのである。
     想念波動とその作用を知る者、そして「大峠」を越える為、未来へ向かって人類が何をすべきか得心の行った者は、この欺瞞と罠をよくよく銘肝すべし。

     宗教の神々と呼ぼうが、地球の神々と言おうが、その実態は邪神・邪霊なのである。何度も言及するが、これらの手管(てくだ)の要諦(ようてい)は想念波動とその作用を覆い隠し、極めて狡猾(こうかつ)に真理めいた言葉を散りばめ、愛と正義に満ち満ちた教義を展開するかの様にみせかけ、その実、人類の欲心をあおり、自己主張を助長する破滅の方向へと導くという一点に尽きる。その最終目的は地球の小惑星化、流星化なのである。不良惑星人の我欲の想念波動に吸い寄せられるかのように地球に参集した邪神・邪霊が数万年に渡って「悲願」としてきた地球の流星化である。
     理念の眠った宗教的人格者やカリスマ的存在や霊感的教祖の背後で宗教を起こし、これを利用して、平和、愛、正義、真、善、美、誠などまことしやかに謳い上げ、「欲心を捨てましょう」「隣人を愛しましょう」と一方で正しいことを言いながら、また一方では、我欲ある信者の心の隙に付け入って無限供給などと称し、信者に気付かれぬように欲心を煽り続けるのである。

     「シリーズ第9回『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」の一部をそまま転記すれば、「邪神ですら真理を説くのである。九割は正神の言葉を盗んで真理を説き、安心させ、残り一割で見事に騙す。邪神ほどの老獪な存在であるが故に出来ることである。平等を説き、平和を語り、人心を美辞麗句に酔わせ、「いざ、いざ行かむ」と神の顔をして、人を獣へと導くのである。」邪神が邪神の顔をして現われるはずがないではないか。むしろ燦然と神々しい光を放ち現われるのである。いわゆる霊能者にかかるのは神々しいまでにその姿を幻視させる邪神から邪霊、果ては低い背後霊まで「ピンからキリ」である。往々にしていずれの霊能者も「神」を説くものである。

     肉体人間は、三次元の肉体とその複体である四次元の霊体を持ち、三次元に生活しながら、同時に四次元にも繋(つな)がっているのは最早常識であろう。顕在意識とも呼ばれる表面意識は通常三次元での活動にのみ関与し、無意識とも呼ばれる潜在意識は四次元にもそれ以上の次元にも作用するように組成されている。所謂虫の知らせや夢や第六感はこの一部である。

     通常の生活における意識状態では、意識による無意識の捕捉、即ち表面意識で潜在意識の動きを捉えることは極めて稀であるため、四次元に関与する潜在意識で得た印象や心象が三次元用のモニターである肉体の脳を再生機とする表面意識に浮かび上がることは意識的にはできない。できるとすれば無意識に意識を投じた時(瞑想などによる変性意識状態)などであり、通常の生活における意識状態では無意識層の情報をはっきりと意識的に感じ取る事は困難である。特に表面意識が生存競争に奔走する時には決して潜在意識から表面意識へ四次元の印象、心象が浮かび上がることはない。

     しかし、霊能者と呼ばれる者たちの背後霊の波動変換能(または波動干渉能)とでもいうべき能力により、四次元の印象や心象を即座に表面意識へ言わば‘ショートさせる’ことで導入せしめる能力が霊能力である。よって、その背後霊の正邪、真偽、高低の度合いにより、入れ物である霊能者の程度も百人百様となる。そこに肉体人間としての霊能者自身の耐久力、知識、人格、霊位の影響が加わり、更に霊能者の潜在願望にその背後霊がある程度呼応して、現われる霊能は千差万別となる。

     遺失物(うせもの)判断や方角占いの如きものから、シャーマニズムのような呪術的なもの、奇跡的な詐術で世間の瞠目を集めるもの、心霊手術や治療を施すものや死者の霊を憑依させる口寄せ的なもの、そして稀代の予言者まで様々であるが、低い背後霊の支配する者ほど即物的で、高い者は啓示的となっていく。しかし、高い者とは言っても、この背後霊は所詮四次元の範囲を出ることは決してない。なぜなら宇宙の神は肉体人間に霊能力は決して与えないからである。

     肉体人間に(悪想念の制御という条件付で)自ずと賦与されるように仕組まれているのは、精神感応力を基礎とした様々な(地球人のいう)超能力である。悪想念制御ができぬうちはこの超能力も決して開かれない。それは精神異常者に刃物を持たせるのと同じだからである。超能力は不良惑星人がそう呼ぶのであって、生命進化上、優良惑星人のようにエゴを放擲(ほうてき:打ち捨てること)した段階に精神性が到達した時、自ずと発現する能力であり、それを‘超’能力などと呼ぶ必要はない。

     不良惑星人には抽象的概念を理解する能力は今となっては当たり前の能力であるが、初発の人類や類人猿からすればその能力は将に超能力に匹敵する摩訶不思議な力なのである。それと同じように、地球人の言う超能力は生命の進化に伴って賦与されるよう仕組まれ、約束された当たり前の能力なのである。霊能力のように背後霊の霊位の高低とその感応度により結果を左右される不安定な能力とは異なり、エゴを放擲した時に自ずと開く能力なのである。この能力はエゴ、我欲を捨て切れない地球惑星人には未だ‘超’能力という手の届かない領域にある能力だが、優良惑星では(敢えて言えば)‘常’能力である。よって正神と繋ぐ優良惑星人に、四次元の様々な低き者がかかることもなく、霊能力と称する‘混線’や憑依もない道理である。

     霊能力の発現は地球惑星始め他の不良惑星特有の現象なのである。
    優良惑星に霊能者は存在しない。全ての優良惑星人は我欲の制御を成し遂げているため、波動同調性により邪神と繋ぐことはなく、宇宙の神々と繋がり、創造神には全幅の信頼を置くため、常に正神に‘神憑って’(かみがかって)いるのである。惑星人ひとり一人が正神と繋ぐ至福の中にある優良惑星社会に、何ぞ宗教、社殿、仏閣、聖堂の必要あらんや。我欲の制御、エゴの放擲を為し得た結果、幸福は望まずとも享受できるものなのである。

     地球惑星人は地球科学的常識で解き明かされないからといって、不可思議な状況を直ちに神、または神々と判断して呼ぶような古典的信仰に近い思考に走ってはいけない。古代神道は随神(かんながら)の道を説き、宗祖・教祖も存在せず、思想、哲学的に神の道を説くもので地球発祥のものにしては比較的高い次元を示す道であった。

     しかし、時代が下るに従い、我欲の者共に汚濁され、邪神・邪霊に踏み荒らされる様相へと変質してしまった。いつしか原始宗教のごときアニミズム的傾向を示し、高き神々に通じていた往時の影もなく、完全に形骸化して今日に至っている。八百万(やおよろず)の神の発想は既述のごとく、愛と叡智が様々に変化して万物として現れる様子を捉えて生まれたものであるが、鳥が空を飛ぶその力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が水中に沈む重力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が石であること自体は神の「働き」であるのにこれを神とし、水が水素と酸素で水たることは神の「働き」であるのにこれを神としてしまったのである。古神道時代の惑星人は神とは叡智そのものであり、愛そのものであると直感していたため、石や鳥や水は根源的神ではなく、働きであると知っていたが、時代が下るにつれて根源的神の「働き」までも神々とするような愚昧に成り果ててしまったのである。これも我欲に付け入った邪神の支配下に入って、理念を眠らされた結果である。こうして石にも雨にも土にも神々が宿るとされた。(「神が宿る」とするのは一面的には正しいのであるが、それは根源的神の現れであり、働きであって、神そのものではない。)こうして八百万の神々の‘誕生’となっていった。

     更に時代は下り、ついには『唯一絶対神の存在を八百万の神々の中に埋没させてしまった』のである。日本古来の‘宇宙科学’の黎明はこうして潰えてしまったのである。ここに多神教的古典信仰が成立し、国中に五穀豊穣の神やら鎮守の神やら水の神、山の神、火の神やらが各地で祀(まつ)られ始めた。

     村落の住人達は、不作を憂えて五穀豊穣の神を、洪水が起きれば水の神を、土砂が崩れれば山の神を、火災が起きれば火の神を、地震が起きれば地の神をと、それぞれの神を引っ張り出して祀って祈りを捧げてきた。しかし、村落住人の作物の豊作不作も災害も、偏にその村落住人の想念波動の良し悪しにかかっていることを、時代が下ったこの時、最早知る由もなくなっていたのである。

     村落とその隣の村落が相克し、年中悪想念を撒き散らしておきながら、その村落の豊作や無災害は望むべくもないのである。その村落の収穫と加護は火の神、山の神、鎮守の神や水の神を祀って信仰するかどうかによるのではなく、想念波動の制御に掛かっているのである。

     こうしてここでも邪神・邪霊は、実在である一なる創造主、絶対神の存在を八百万の神という実在しない抽象概念的神の中に埋没させ、人民に絶対神の存在を忘却させることに成功し、その上に想念波動とその作用の隠蔽工作にも成功を収め、抽象概念的八百万の神をせっせと祀らせ、我欲の放擲という魂の転生の目的から人民を遠ざけてきたのである。

     唯物科学が発達した現代にあって、このような多神教的古典信仰を真顔でしていた村落住民を現代惑星人は嘲笑するであろうが、想念波動とその作用による人類の禍福に対し盲目同然であるという点において、往時の村落住民を笑う資格などどこにもないのである。否、現在も相も変わらず邪神の画策にまんまと嵌まり、尚、我欲をほしいままにしているばかりか、往時の村落住民の神に対する感謝の念と比較して、現代人は感謝の念を忘却してしまったかのような驕った姿勢で、どうして往時の惑星人を笑うことができようか。村落住民の信仰は、火の神や水の神といった抽象概念的神を祀って祈れば福来たると思わされるなど、邪神に操られていたのではあるが、豊作の際には衷心より感謝の念を捧げ奉ったのである。仮令(たとえ)実在しない抽象的、概念的神に手を合わせていても、感謝の念は正神と繋ぐ波動であるが故に宇宙則に適った波動なのである。この感謝さえ薄れ行く現今地球惑星人がどうして往時の無知なる村落住民を笑うことができようか。

     山崩れが起こる原因を往時の村落民が山の神の怒りとして恐れたのとは異なり、現代人は災害の発生する原因を地質構造や気象条件に求め、山崩れが起こったのは地盤が軟質なところへ集中豪雨が降って起こったとする。が、優良惑星には集中豪雨が発生しない。集中豪雨が発生しない以上、地盤が軟質であっても何ら不都合は起きないのである。不良惑星の場合、その集中豪雨は如何にして齎されるのか考えて見られよ。業想念の自壊作用である。地球惑星人は洪水を見て荒れ狂うが如しというが、その様子はその惑星に住む惑星人の意識が荒れ狂う、その心の姿の映しなのである。

     これを比喩表現であると思う者が在れば、それは誤りである。比喩などではなく、想念波動の作用の具現化である。悪想念の放散と自壊が病や障りになって現れる事には得心が行くが、気象条件だけは例外ということはなかろう。現れである万物を支持する波動により様々に変化(へぐ)る天則を忘れてはならない。波動が良くも悪くも変化すれば現れも変化するのである。住人の想念波動次第で、悪にも変化り、善にも変化る。悪に変化れば反省と我欲の制御に精進し、善に変化れば尚一層の感謝を捧げ、悪も善も進化に必要な現われなのだから、善きにつけ悪しきにつけ感謝の念を起こすべきなのである。
    宇宙間に根源的悪はない。

     (尚、記紀神話には様々な神々が登場する。根源の神の記述もあるし、観念的神の記述もあるが、登場するほとんどの神々は、架空や喩えやアニミズム的な神々ではなく、実際に肉体をもって三次元地球地上に存在した肉体人間であった。シリーズ第8回『現存地球惑星人の来歴』でも少し触れた天津神、国津神を参照されたし。また、今に伝わる天津神、国津神の伝承は、歴史の中で邪神邪霊の画策に操られた往時の地上権力者とその配下の者共によって改竄され、天津神と国津神が入れ替わっていたり、平定する側が平定された側になって記述されていたり、夫婦であったものが姉弟の関係に記述されていたりして、正邪混沌とした内容になってしまっている。むしろ正統と見なされない、古史・古伝と呼ばれる記録にこそ、真実の片鱗が残されていることが多い。こうした改竄は神道に限らず、仏教、回教、基督教など長い歴史を有するもの程その傾向が顕著である。いずれも時の政治や権力によって書き換えられる道を辿るのである。)

     さて、奇跡を起こして、口に愛だ平和だ慈悲だと唱えれば理念の眠った惑星人を騙して心酔させる事など邪神には赤子の手を捻るより容易であると過去の記事に残した通りである。
     邪神である宗教の神々、地球の神々は、その老練さを以って、霊界上層の善霊たちの説く真理の言葉の破片を盗み、人間の我欲を煽る美辞麗句を散りばめて、真理の言葉を巧妙に捻じ曲げ、すり替え、神の啓示と言っては霊能者や宗教教祖やカリスマ的存在を通じて世に広めて、世の混乱、攪乱を謀(はか)ってきたのである。

     この邪神の傀儡となった宗教教祖や霊能者に吸い寄せられた信者の中には、当然ながら真に神を求め、道を求め、惑星地球の平和を願い、隣人を愛そうと努力するなど殊勝な者も散見されるのではあるが、如何せん、我欲強く、地球に降ろされた優良惑星不適格者であるがため、我欲は未だその両の手に確りと握り締めたままである。この我欲に巧みに付け入るのが、母星の時代から数十万年に渡って、不良惑星人から不良惑星人の肉体に憑依して渡り歩き老獪さを身に付けた狡猾な邪神である。この老獪さと狡猾さにより練られた姦計の前には、善男善女も我欲ある限り一溜まりもない。

     まずは悪想念を制御して、我欲を打ち捨てることこそが一大天譴を目前にした地球惑星人に課せられた人生の意義の中心中の中心である。この想念波動とその作用を覆い隠して愛、平和、正義、真、善、美を如何に美しく飾り立てて説こうとも、その背後はおぞましい邪神・邪霊の世界がぽっかりと口を開いて善男善女を追い落とすべく巧みに罠を張っているのである。

     こうして愛、平和、正義、真、善、美を口にすることで、またそれらしき活動をすることで、信者と役員など取り巻きに祭り上げられる教祖はもとより、嘗ては純粋であった信者の心にもいつしか選民思想が忍び込み、自と他を分け隔てる観念が知らず知らずに育っていくのである。己の属する宗教、宗派、主義、信条に合致しない他者の考えを聞き、行いを見るにつけ「フン、○○の神様の世界もわからないくせに、知らないくせに、お前たちときたら・・・。」と。

     自他分離は、自他一体感と利他に生きる優良惑星人には皆無の想念波動である。宗教の神々、地球の神々、即ち邪神・邪霊が衆人を導こうとするその目的は、選民思想を植え付け自他分離を謀(はか)り、想念波動の作用を隠蔽して、欲を巧みに煽る美辞麗句で衆人の理念を眠らせ、悪想念を発するよう仕向けることである。想念波動とその作用を隠蔽したまま、衆人を導く宗教も主義も道徳もいかなる信条も、優良惑星人の自他一体、利他愛とその表出である奉仕とは、「似て、全く非なるもの」であることを知らねばならない。

     地球惑星人は宗教の背後も知らず、教団に入信して信者となったり、そうでなくとも、社殿、仏閣、聖堂に参拝しては、その我欲の心で願掛けをする。勿論その中には物見遊山で、自ら信じてもいない神仏の前で賽銭を放り投げる者も多いが、これらの者とて商売繁盛、家内安全、安産、合格祈願などの札を買い求める際には、内心半信半疑ながら些かでも御利益を求める気持ちを働かせている。これらの者は、その社殿に何が祀られていようとも、その意義など何ら意に介することもない。

     しかし、寺社の中には封建制や武家政治の時代に、弱者を巻き込み踏みにじり、武力によって天下を取った我欲の権化である武将の霊魂を祀っているものなどがある。神としてその社殿に今日まで祀られているのが、我欲の権化であることに何の疑問も抱かず、「歴史上の有名人」程度の思いで、物見遊山の衆人は年中行事的慣習として参拝しているのである。地球惑星人は、唯物主義者ですら大方においてこの様な意識である。しかし、武力と政治の力で、実権を掌握し、身分制度を造り同朋を上中下と分離して、弱者から搾取し他を脅かし、他を蔑んで、思い上がった権力者は宇宙則に反するが故に地獄とでも呼ぶべき次元に転落することは自明の理である。これを神として祀るように唆(そそのか)したのは何者であるか言うまでもなかろう。唆される三次元の肉体人間である愚か者共も、地獄行きの武将を神として祭り上げ、時の権力者に媚び諂う低劣極まりない者共である。

     時代が下り、この穢れた社殿に参拝し、況(ま)してこの地獄に落ちた愚昧の魂に願掛けをするなど愚の骨頂である。考えもなく理念も眠らせた善男善女老若男女が後を絶たぬが故に一大天譴を小難に変え得る事も困難なのである。

     人類は転生を繰り返し、数多の人生を体験することで、宇宙則に適った部分は調和の結果をもたらすが、経験不十分で未学習の部分はしばしば宇宙則に適わぬ故に不調和であり、誤った思考、行動となって表現してしまい、その当然の結果として苦痛体験を自らに反映して、自己反省の材料としているのである。幸も不幸も宇宙則を踏まえて映し出される自らの心の鏡なのである。これを弁(わきま)えず、汚濁の社殿に願掛けをして、我れ善しの幸福や御利益を求めても、自ら地獄へ落ちたその社殿・仏閣の「神」には何ら幸福をもたらす力などある筈もないのである。

     そんな事なら、例えば机の上に鉛筆を三本立てて、携帯電話の着信音を鳴らして拝んでも同じ事である。そこには何の意義も加護もなかろう。惑星人は寺社・仏閣・聖堂の「形」、すなわち虚仮威し(こけおどし)に惑わされてはならない。

     現存文明圏に住む人類は、「たかが神社・仏閣への形ばかりの参詣に、何を大袈裟な・・。」と思うであろうが、実際に参詣する者の心中は、例えそれが物見遊山の参詣にしろ、ここぞとばかりに地位、名誉、金銭を求めて願掛けしたり、我欲を放擲する努力もせずして病気や障り事から逃れて、ただただ幸福を手に入れたいなどの、宇宙則を無視した利己的願望に支配されているのである。有り得ない事だが、百万が一にも、ひとり一人のこの我がまま勝手、自己中心の願いを「いずこかの神」が叶えたとすれば衆人は忽(たちまち)「神とは人の願いを叶えるために存在するもの」と定義するであろう。  

     現実はそのように救い様も無いほど勘違いした意識の極めて低い者達の数は思いのほか多いのである。こうして欲深い善男善女が発する自己中心、我善し、身勝手な願掛けの想念波動に嬉々として「糧」を得て、人から人へ‘感染’する邪霊が初詣などの寺社にウヨウヨと屯っている。その様は将に身の毛も弥立つ様相である。

     宇宙の神々は一なる創造神を「信仰しろ」とは決して言わない。人類に対し、ただ「その我欲を打ち捨てよ」と諌め、守護進化を司るのみである。我欲を放擲する時、‘超’能力はひとり一人に開き、この地上に桃源郷が展開するのである。邪神の齎(もたら)した宗教に縋(すが)り、神社・仏閣・聖堂に参詣して祈りを捧げても、その参詣者の我欲による想念波動が汚濁したままで、どうして桃源郷が現れるというのか。優良惑星に社殿・仏閣・聖堂は存在しないのである。敢えて存在するという言うなら、優良惑星人ひとり一人が正神の宿る社殿なのである。

     地球惑星の唯物科学の発達に伴って、昨今の僧侶も尼僧も司祭も司教も自らも信じてもいない神仏をその信徒・信者に説法して、神仏をダシにして生活の手段とし、ともすれば低俗な風潮に迎合して、真理をいいように改竄して伝える「体(てい)たらく」である。その悟りもない僧侶・尼僧・司祭の読み上げる経文のどこに価値があるというのか。

     「先ず波動有き」である。もしここに我欲を打ち捨て去り、正しい悟りに到達した僧侶・尼僧・司祭が一斉に経文を唱えれば、その正しい想念波動が忽ち天地万物の波動に鳴り響いて三次元地上も四次元霊界も共に浄化されるのである。しかし、上述のような悟りのない僧侶らが何千万人集まったところで、我欲を確りと抱いていれば、その想念波動でどんなに高尚な経文を唱えても、万物の波動に共鳴して瞬く間に汚濁は放散されるのである。極端な喩え話だが、我欲がなく放散する想念波動が充分に清まった高次のものならば、その経文を「ハラホレヒレハ、ヘベレケレ、ンナワケネーダロ、ヘッポコキターッ」と、机の上に鉛筆を三本立てて携帯電話の着信音を流しながら